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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0563A01: ども聖聰に嗣法する以前に蓮譽に師事したりと云
J20_0563A02: ふ。蓮譽の行跡は不明なるも。同じく聖聰の弟子に
J20_0563A03: して。且其法嗣善譽良敏。其法孫法譽が相繼ぎて百
J20_0563A04: 萬遍の廿世廿一世たる事實に考合すれば。京都殊に
J20_0563A05: 百萬遍に深縁ありし人たりしが如し。從て慶竺の入
J20_0563A06: 洛も蓮譽に關聯する所あるが如し。彼が入洛の年月
J20_0563A07: 不明なるも。永享七年七月に三經直談要註記を筆受
J20_0563A08: し。其翌年六月當麻曼陀羅疏の聖聰の草稿を淨寫し
J20_0563A09: たりと云ひ。又彼が知恩寺に住し。後花園天皇より
J20_0563A10: 知恩寺は淨土宗第一たるにより香衣被着參内敕許の
J20_0563A11: 宣旨を賜はりしは。嘉吉三年正月十一日にありしを
J20_0563A12: 以て。永享七年より嘉吉三年の間にあるや明なり。
J20_0563A13: 慶竺は尚文安六年五月二十一日。朝家千載の榮運を
J20_0563A14: 祈るべき綸旨を賜はる等。朝廷の覺え甚目出度。より
J20_0563A15: て以て宗運を隆にしたること甚大なりしが如し。彼
J20_0563A16: 始めは知恩寺に住し第十九世の住持たりしが。後に
J20_0563A17: 知恩院を兼帶し第二十一世の住持たり。從來祖忌を
J20_0563B18: 修する年久しかりしも未だ一定せる法式なく。各山
J20_0563B19: 及末寺夫夫區區たりしが。慶竺深く之を憂ひ。諷誦
J20_0563B20: 法則を制定して之を各山に示し。末寺に及ぼし。本
J20_0563B21: 宗祖忌の永式となれり。
J20_0563B22: 慶竺以前譽號を有するもの。百萬遍第十世に信譽
J20_0563B23: 善久あり。知恩院第十九世に堯譽隆阿ありと雖も。其
J20_0563B24: 譽號が關東の譽號と同一なる否やは不明なり。故に
J20_0563B25: 史上明に關東系統にして京都本山に董職したる最初
J20_0563B26: の人は慶竺なりと云はざるべからず。慶竺一たび京
J20_0563B27: 都に入りてより關東の法流は滔滔として京畿に漲溢
J20_0563B28: するに至れり。即ち百萬遍は聖聰門下蓮譽の弟子善
J20_0563B29: 譽良敏。善譽の弟子法譽相次ぎ第二十世第二十一
J20_0563B30: 世となり。其後も然譽・眞譽・聖譽・傳譽・賀譽等相
J20_0563B31: 次ぎて帶譽號の住持たり。同時に黑谷にも西譽。弘
J20_0563B32: 譽。性譽等の住持あり。淨華院にも定譽・專譽・潮
J20_0563B33: 譽・信譽等の名世代中に散見するに至り。遂に四箇本
J20_0563B34: 山は白旗正統の領有に歸せり。

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