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J3040 筑後善導寺誌要 善導寺編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0438A01: く我れ今筑前國博多の津に渡れり汝速に迎へ取るべ
J20_0438A02: しと國師靈告を蒙りて大に驚き翌日彼の地に向ひて
J20_0438A03: 之を求むるに一舶あり國師舶主に就て夢の次第を語
J20_0438A04: り給ふに舶主いはく某纜を解きて將に宋國より歸帆
J20_0438A05: せんとするに一僧あり飄然として來りて船に投ず其
J20_0438A06: の風丰常人に同じからず今既に上陸して彼の松原に
J20_0438A07: 入れりと國師之を聞き馳せて其の處に至るに更に人
J20_0438A08: 影なく唯善導大師の尊像儼然として樹下に立ち給へ
J20_0438A09: るを見るのみ國師驚愕して未曾有なりと歎じ瞻仰頂
J20_0438A10: 禮して像を迎へて寺内に影堂を建て之を安置す因り
J20_0438A11: て世人呼んで善導寺と號す光明院の稱は元と當山を
J20_0438A12: 光明寺と號す然るに善導寺の名廣く行はれしを以て
J20_0438A13: 中比寺名を改めて院號となせるものなり井上山の稱
J20_0438A14: は當處の地名に依りて之を立つ
J20_0438A15: 沿 革
J20_0438A16: 大紹正宗國師一たび當山を創建し要阿夫妻心を一に
J20_0438A17: して外護に任じたりしを以て寺門繁興し僧徒雲集し
J20_0438B18: て久しく西海に於ける淨家の大靈場たりき弘安の頃
J20_0438B19: 猶ほ三十六坊を有し法運頗る隆隆たりしが南北朝の
J20_0438B20: 時草野は武家に屬し互に干戈を搖すに際し延元三年
J20_0438B21: 遂に兵燹にかかりて堂宇悉く燒亡し重寶亦多く散逸
J20_0438B22: せり文安年中第十世智空上人大に土木を起して諸堂
J20_0438B23: を再建せしが後二十餘年にして應仁の兵亂に會し伽
J20_0438B24: 藍又悉く灰燼に歸す永正年中草野氏施主となりて山
J20_0438B25: 七間半三間並に善導堂を再造し大永三年三月御影堂
J20_0438B26: 七間八間を重建す天正八年春諸堂又祝融の災にかかり翌
J20_0438B27: 年秋集會堂五間七間を造營す同十二年草野氏大友氏の麾
J20_0438B28: 下を去りて新に龍造寺氏に屬す時に筑前立花城主戸
J20_0438B29: 次道雪大友氏に隷せし故を以て草野氏と隙を生じ同
J20_0438B30: 年遂に當山第十九世祖吟上人及び所化上座十二人塔
J20_0438B31: 頭三十六人を放光寺の亭に招きて殺害し又衆を率ゐ
J20_0438B32: て來りて當山を攻め火を放ちて殿堂門廡悉く之を燒
J20_0438B33: く時に寺僧善導大師並に開山國師の像を負ふて遁れ
J20_0438B34: て千歳川を渡る道雪の徒之を追ふこと頗る急なりし

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