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J3010 百万遍知恩寺誌要 百万遍編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0311A01: 三年將軍義滿公の命に依て寺基を小川の西に移し堀
J20_0311A02: 川の東一條の北に建立せり(舊地は大師の遺跡加茂
J20_0311A03: の河原屋の存せし所にして現時相國寺の境域に屬す
J20_0311A04: 中に法然水と稱する小池あり又上御靈附近には法然
J20_0311A05: 辻子と呼べる所あり是れ大師加茂明神參詣の道筋な
J20_0311A06: りと云ふ往時一條以北は九重の外にて加茂の河原た
J20_0311A07: り大師の草庵此地にありしを以て加茂河原屋の名あ
J20_0311A08: りと)其後第廿一世法譽上人代永正五年堂塔兵燹に
J20_0311A09: 滅ふ第三十二世奉譽上人豐太閤の歸嚮を得天正十八
J20_0311A10: 年寺域を寺町革堂の北に轉じて七堂伽藍の結構輪奐
J20_0311A11: 宏壯を極む豐公また寺領を附し門末を養成せしむ德
J20_0311A12: 川氏また朱印を以て寺領を附す降て第三十九代滿靈
J20_0311A13: 上人代寬文元年正月十五日京師火あり當寺類燒の災
J20_0311A14: に罹る乃ち寺域を轉して北白川現時境域に遷る上人江
J20_0311A15: 戸に下り將軍に面して陳情再建の許可を請ひ寺格の
J20_0311A16: 繼承を得るに及んで四方に募縁し諸堂を再興す故に
J20_0311A17: 中興と稱す第四十八世震譽上人代寶曆六年三月十日
J20_0311B18: 御影堂の改築功を奏し滿靈眞徹連海諸上人の遺圖を
J20_0311B19: 全し當寺の結構を具備す第五十四世祐水上人また增
J20_0311B20: 築營修する所尠からず當山昔時は多く敕請に依て晋
J20_0311B21: 董するを例とせしが第三十四代德譽上人以降台命に
J20_0311B22: 改まり第六十世運譽上人を其終とす明治維新後は門
J20_0311B23: 末公選より内務大臣特選となり次て一宗公選となる
J20_0311B24: 幕府政權を奉還するや寺領は公收せられ排佛の聲は
J20_0311B25: 世に高く一時混沌の狀を呈せしが運譽上人以降の住
J20_0311B26: 持敎法の宣傳と寺基の保全とに意を留め大に竭す所
J20_0311B27: ありしかば困憊却て盛運を開き一宗本山の面目を備
J20_0311B28: ふるに至れりこれ當山沿革の梗概とす
J20_0311B29: ○第二 歷代
J20_0311B30: 開祖圓光大師法然房源空上人承安五年の春淨土宗を
J20_0311B31: 開創し給ひし後は慈眼房叡空上人の室を辭し四明
J20_0311B32: の巖洞を出てて西山の廣谷東山の吉水小松殿等に
J20_0311B33: 止住ましませしが就中加茂の河原屋は加茂明神の
J20_0311B34: 神慮に遵ひ專修の要行を開示し給ひし靈地にして

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