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J2840 鎌倉光明寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0608A01: りといへり此三村いづれをさすといふ事をしらず
J19_0608A02: 若し藤澤宿の西白幡明神の傍を正と云か又鴻巢近
J19_0608A03: 村の小名をもそれかと思へばすべて五ケ所なりさ
J19_0608A04: れど今正しく其村にて遺跡ありといふ事をきかず
J19_0608A05: 愚按には師の記主公鴻巢におはして弟子定惠箕田
J19_0608A06: に結庵と云ひ館林をひらきなどせられしを思へば
J19_0608A07: 鴻巢に近きを正とすべき歟上總國白幡と蓮沼木戸
J19_0608A08: 等を始南北二總に記主おはせし間住れしといへば
J19_0608A09: 是も大に縁あり此數ケ所の内何れといふ事定かた
J19_0608A10: し又開祖上足の持阿住し藤田も程近ければいづれ
J19_0608A11: にも鴻巢に近き白幡村にて相模國にはあらざるべ
J19_0608A12:
J19_0608A13: されば當山を六派の本山とも又は關東惣本山とも稱
J19_0608A14: 承永の末より此稱起れり故に花洛の本山に摸準し六役者を門中の上老席に定め門末を指揮依〓關東にての
J19_0608A15: 座席柳營家の外法席にては縁山の次席傳通院の上と
J19_0608A16: 定む定には神祖以後の御由緖無之故に年頭の時は大廣間獨禮席諸家の惣上座なり文化中官より別に故ありて花頂縁山への仰付の日
J19_0608A17: の登營の日の扣席大廊下下の御部屋と定れりそのかみ經時武藏國箕田郷三百町
J19_0608B18: を寄附し學徒の資糧にすすめられしかば師領知に下
J19_0608B19: りて勝願寺の起立有られける時定惠上人かの箕田に
J19_0608B20: 近き白幡村に弘通あられし
J19_0608B21: 伽藍數所
J19_0608B22: 本堂 十三間四方 檜葺 菊金紋五箱棟の上にあり
J19_0608B23: 開山記主禪師の容影を宮殿の内に安置す是花洛本
J19_0608B24: 山四ケ所に模凖し關左の本山たる故「勅諡記主禪
J19_0608B25: 師」の橫額をかく滅後七年永仁元年七月後宇多天
J19_0608B26: 皇より賜所なり其ころ國師と賜るべきを建長寺の
J19_0608B27: 道隆に大覺禪師の號を賜りければかの門下皆大に
J19_0608B28: ほこりかに稱へけるにそ其頃は臨濟禪盛也ければ
J19_0608B29: それをうらやましき事におもひなし國師號と禪師
J19_0608B30: 號の優劣をしらずして我門の徒幸に宗門の書に數
J19_0608B31: 多の疏記を述せられしを奏し禪師號を乞願有しと
J19_0608B32: なり此とき公卿一同大に笑止に存ぜられ種種諭敎
J19_0608B33: あられしかば花洛の門下はさもと存ぜしかど東關
J19_0608B34: に門人多かりて皆かの大覺禪師におとらぬ德行な

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