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J2840 鎌倉光明寺志 摂門 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0607A01: いよいよ榮昌たり其後上杉管領の時より鎌倉自然と
J19_0607A02: 衰へ大廢變して田畑と成寺院失て竹林となるに及び
J19_0607A03: 八重九重の山頭白雲彩霞に昔の俤のみ殘りて貴賤他
J19_0607A04: 邦に散亂せしかば當山も沿革回祿數度に及び一榮一
J19_0607A05: 衰時に祥不祥ありといへども寺門佐介谷より今の地
J19_0607A06: に移轉ののちは再び改むる事五百の星霜夢にひとし
J19_0607A07: く觀せられて今猶御當家御開國の頃定させられし十
J19_0607A08: 八員の首座に標列して開山の遺德空しからず代代の
J19_0607A09: 歷住の功失ふ事なくして賜紫勅願の光榮朱璽檀林の
J19_0607A10: 譽れ自他宗に冠魁せる事しかしながら護法の善神大
J19_0607A11: 小の冥鑑たるものならん歟さるを以て當山は開祖禪
J19_0607A12: 師門下六派の惣本山と定むといへども學する所は白
J19_0607A13: 旗流のみなり是開祖の嫡弟寂惠上人栖庵の地名なる
J19_0607A14: が故つひに流名とす
J19_0607A15: 按るに宗徒古來より白旗は相模國と云是は藤澤宿
J19_0607A16: の西に白旗大明神の社あるが故に左に思へれどこ
J19_0607A17: は源義經を祭れる社の名にて村名にあらず一説に
J19_0607B18: 寂惠公此社の傍に住れしかば白旗と名く今の藤澤
J19_0607B19: 宿淨光寺は其時の庵蹟なり遙年を經て一宇とせし
J19_0607B20: と云又一説には開祖勝願寺起開の時彼近隣の一村
J19_0607B21: の小名の白旗なり故に寂惠公の上足定惠上人の舊
J19_0607B22: 跡鴻巢にちかき箕田にあり夫に住弘通せられしか
J19_0607B23: ば上州館林村に善導寺を建られしも其地にちかき
J19_0607B24: を以てしるへしと今此二説によりて兩國武相の圖を
J19_0607B25: ひらき見るに相模國に白旗の地名なし武藏國に二
J19_0607B26: ケ所あり一は足立郡の白幡村は浦和と蕨の二宿の
J19_0607B27: 間の南にあたりて東は根岸村北は岸村南は沼影村
J19_0607B28: 西は別所村なり是鴻巢へ近きといふ所歟一は橘樹
J19_0607B29: 郡の白旗村は神奈川の西にて北は寺尾村西は篠原
J19_0607B30: 村南は六角橋村なり此二ケ村の内に惠公の舊跡傳
J19_0607B31: ふる事なし又或云上總國東に白幡村あり蓮沼下總
J19_0607B32: の木戸村に近し記主公蓮沼極樂寺木戸光專寺等開
J19_0607B33: 建の上千葉の一族等が請によりて南北二總の間に
J19_0607B34: 遊化ましますこと十餘年その中間其所に寂惠在せ

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