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J2810 華頂誌要 華頂山編 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J19_0223A01: 二間、桁行六間半、瓧葺なり。元と桃山の城門なり
J19_0223A02: しが、慶長年間此所に移して通用門となす。
J19_0223A03: 總門 黑門の正西約二百間の地に在り。白河に接
J19_0223A04: す。明二間半、瓧葺なり。慶長以後專ら此より本院
J19_0223A05: に通せしを以て、支院其左右に列せり。後ち櫻馬場
J19_0223A06: を開き、表門を設くるに及ひ、彼を新門と稱し、此
J19_0223A07: を古門と呼へり。
J19_0223A08: 得淨明院 黑門、總門の中間、舊學林の北部、知
J19_0223A09: 恩院宮御殿の舊址に在り。 明治十五年善光寺大本
J19_0223A10: 願上人久我誓圓尼公の開創にして、本宗の別格寺な
J19_0223A11: り。
J19_0223A12: 塔頭支院 黑門前より總門に至るまで、其北側に
J19_0223A13: 在るものを良正院、先求院、舊學林、福壽院、浩德院、
J19_0223A14: 松宿菴、その南側に在るものを通照院、常稱院、信重
J19_0223A15: 院、保德院、忠岸院、入信院、光照院とす。良正院は
J19_0223A16: 元と浩翁軒と號す。賾譽宗把の時、鳥取侯池田忠雄
J19_0223A17: 母公良正院殿東照公の息女の香花所と定むるに及ひ、今の
J19_0223B18: 名に改む。先求院は天正の頃酒井忠次法諱先求院殿の庵居
J19_0223B19: せし所にして、聲譽助念を開山とす。舊學林の地、
J19_0223B20: 元と知恩院門跡の御所なり。南北の寮舍は明治十四
J19_0223B21: 年の建設にかかる。福壽院は元と松壽或は樹に作る院と號
J19_0223B22: す。有馬氏の開基なり。通照院は元と西養軒と號す。
J19_0223B23: 元祿十五年靈雲院と改め、享保に至り、今の名に改
J19_0223B24: む。信重院は天正年中名譽重信の開基にして、慶長
J19_0223B25: 八年藤堂勝兵衞の香華院とす。保德院は正保年中松
J19_0223B26: 譽源甫の開基。入信院は元と智相院と稱し、寬永年
J19_0223B27: 中松平越中守定綱の建つる所にして、靈巖上人を祖
J19_0223B28: とす。元祿、寶永の頃義山上人の住持を以て名あり。
J19_0223B29: 光照院は松平伊豆守信吉の香花所なり。
J19_0223B30: 又黑門の南に崇泰院あり。此地に元と親鸞聖人の廟
J19_0223B31: 所ありしを、慶長恢弘の時鳥部野に移さしむ今西大谷と稱する
J19_0223B32: 是なり院の後に今尚ほ其跡を存す。又通照院の後方に
J19_0223B33: 光玄院あり。元和二年滿譽僧正の開基なり。此地に
J19_0223B34: 元と太子堂ありき。其後方櫻馬場に沿ひて樹昌菴、

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