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峯高寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

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ほうこうじ/峯高寺

長野県飯田市松尾町。崑崙山。長野教区№二一九。開山は、照蓮社寂誉。当寺は、元は慶林寺と号した。慶長一二年(一六〇七)、飯田城主小笠原秀政の内室福姫(峯高院)が死去し、城外に墓地を造り埋葬する。後、小笠原家の菩提寺として慶林寺を峯高院の墓地に移し、峯高院の法名より寺号峯高寺と改め建立したことを開基とする。現在も三ツ葉葵の刻まれた福姫の墓が境内に祀られ、位牌は小笠原氏の国替に従い福岡県京都みやこ郡みやこ町の峯高寺に祀られている。また、当寺は触頭ふれがしら職として、知恩院増上寺の両方の触頭に任命されていた。


【資料】『蓮門精舎旧詞』二六(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)


【参考】宇高良哲「浄土宗の触頭制度について—特に触頭の諸国分布を中心に—」(印仏研究二九—一、一九八〇)


【執筆者:兼子道雄】


福岡県京都みやこ郡みやこ町豊津。平照山知廓院。福岡教区№三三。元は信州飯田に創建され、飯田城主小笠原秀政が慶長一二年(一六〇七)に逝去した内室・福姫(徳川家康の孫)の供養のために建立。吞宿を開祖として、福姫の戒名より峯高寺と称した。同一八年、家康の命を受け秀政が松本に移る際、二世龍冏も従い松本に峯高寺を建立。その後、兵庫の明石、福岡の小倉・田川・行橋と移り、明治二六年(一八九三)現在の地に移る。飯田・福岡共に小笠原家の菩提寺でそれぞれ触頭ふれがしらであった。


【資料】『蓮門精舎旧詞』三三(続浄一九)


【参考】村上達亮『峯高寺さん』(峯高寺、一九八六)、豊津町史編纂委員会編『豊津町史』(豊津町、一九九八)、宇高良哲『近世関東仏教教団史の研究』(文化書院、一九九九)


【執筆者:金田昭教】