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吉水の禅房

提供: 新纂浄土宗大辞典

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よしみずのぜんぼう/吉水の禅房

法然が西山の広谷から東山吉水のほとりに庵を移した際の住房、および、その後に弟子のため建立された住房をも含めた総称。『四十八巻伝』六、一八、四五、四六では「吉水の御房」「吉水の禅室」、『十巻伝』四、六では「吉水の禅房」と呼称。建久九年(一一九八)の『没後遺誡文もつごゆいかいもん』(『漢語灯録』一〇)によると、吉水には、もと広谷の庵を移した中の房、東の新房と西の旧房(本房)があり、法然の住房であった中の房に加えて、門弟の増加にともない西の旧房が、次いで東の新房が建てられたと推定される。『翼賛』四九では、中の房は二岩ふたついわとも呼ばれ御影堂の所、東の新房は松のしたとも呼ばれ鐘楼の東北、西の旧房は清水しみずとも呼ばれ三門の西南にあったとするが、『山城名勝志』一四では「知恩院寺説」として、中の房は安養寺蓮阿弥房雲生寺殿墓地、東の新房・西の旧房は三門の南とし、『山州名跡志』二では、中の房は経蔵の地、東の新房は小方丈の地、西の旧房は丸(円)山の西に当たるとする。また、応永(一三九四—一四二八)頃の古図写とされる『大谷古地図』や『中古京師内外地図』(寛延三年〔一七五〇〕)では、吉水の西の大懺法院の南に面して、東から並列に「吉水東新坊」「吉水中坊」「吉水西坊」を描いている。


【資料】『山城名勝志』(『新修京都叢書』一四、臨川書店、一九七一)、『山州名跡志』(『新修京都叢書』一五、同、一九六九)、『中古京師内外地図』(『京都市史 地図編』京都市、一九四七)


【参考】三田全信「知恩院起源と初期の変遷」(『改訂増補浄土宗史の諸研究』山喜房仏書林、一九八〇)、中野正明「『没後遺誡文』について」(『法然遺文の基礎的研究』法蔵館、一九九四)、善裕昭「京都白毫寺蔵大谷古地図」(『法然上人研究』四、一九九五)


【参照項目】➡広谷吉水


【執筆者:山本博子】