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光明摂取

提供: 新纂浄土宗大辞典

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こうみょうせっしゅ/光明摂取

阿弥陀仏が放つ光明は、すべての人に等しく降り注がれているが、ただ念仏する者のみ、その光に摂取される、救済されるということ。『観経』に「光明、徧く十方世界を照らして、念仏衆生を摂取して捨てたまわず」(聖典一・三〇〇/浄全一・四四)と説かれ、善導は『往生礼讃』で「相好光明十方を照らす。ただ念仏のみあって光摂を蒙る。まさに知るべし、本願最も強となす」(浄全四・三七二上)と論じている。法然は、『三部経大意』において、「済度衆生の願は平等にして差別有る事なけれども、無縁衆生利益を蒙る事能わず」(聖典四・二八七/昭法全三〇)と前置きした上で、「光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益を蒙らん事疑うべからず」(聖典四・二八八/昭法全三一)と結論している。光明摂取を図示したものに、現存しないが「摂取不捨曼陀羅」がある。『興福寺奏状』二の「図新像失」に指摘されている。また、明恵の『摧邪輪ざいじゃりん』下、無住の『沙石集』一・一〇にも言及されており、その内容を窺うことができる。


【参照項目】➡摂益文


【執筆者:大嶋憲彰】