操作

巌谷愍随

提供: 新纂浄土宗大辞典

2018年3月30日 (金) 06:19時点における192.168.11.48 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

いわやみんずい/巌谷愍随

元治元年(一八六四)一一月一九日—昭和三年(一九二八)六月二九日。明顕心院哀蓮社護念良阿愚祐俊順。京都教区伏見組西岸寺二五世、後に東京教区玉川組祐天寺一七世後中興。質実にして不言実行主義の人。東京市京橋区田中七五郎の次男として出生。明治八年(一八七五)神奈川教区鎌倉組聖徳寺一七世霊俊の下で剃髪得度。霊俊の蓮社号の愍と霊俊の師蓮馨寺観随の随を採って愍随と改名。最初、鎌倉光明寺九八世吉水玄信より五重を相承するが、思うところあって京都に移住。再び、黒谷観定より同一五年五重を再伝。同一七年西岸寺二四世巌谷純成の養嗣子となり、同二三年西岸寺住職に任ぜられる。同二四年知恩院日野霊瑞より璽書を伝授される。明治二七年(一八九四)の火災により本堂を焼失し再建途上にあった祐天寺を霊俊より同三二年に引き継ぎ、借財の返済に努め再び伽藍を整えた。その間、同四二年に焼失し復興が遅れていた増上寺大殿再建に増上寺執事として尽力、大正一三年(一九二四)には(財)宗政復興後援会創設時の常務理事として震災等の被災寺院に対し、復興事業を援護助成する道筋を付けるなど、宗および増上寺の発展に功績を成した。京都にては、西岸寺を再建し、総本山慈教講幹事、京都中教会第五教区支所財務主任等を歴任。東京移住後は、第一大教区荏原小教区教務支所長、荏原教区教務所長、東京教区会計監査員、七島別教区長、増上寺門末議員総代、増上寺興隆会常議員、増上寺顧問、増上寺執事浄土宗東京慈善団協議員、浄土宗教師功績銓考委員、浄土宗教育資団協議員、浄土宗労働共済会評議員、宗会宗務所委員、(財)宗政復興後援会常務理事などを歴任。浄土宗発行の雑誌『宗教界』の発行にも助力した。著書に『浄土十祖画像略伝』(宇田総兵衛、一九〇三)があり、鎌倉光明寺一〇世正空原著『通俗十夜法要縁起』(同)を更補刊行した。


【資料】巌谷愍随『経歴概記』(祐天寺蔵、一九二八)、『浄土教報』一二二七・一七五六・一七六四号


【執筆者:巖谷勝正】