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提供: 新纂浄土宗大辞典

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(さかたりょうこう/坂田良弘)
 
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明治一一年(一八七八)三月五日—昭和三〇年(一九五五)一月六日。願西心院光[[蓮社]]正誉[[法阿]]深信。[[日本浄土教]]、特に[[聖光]]教学の研究を中心に活躍した学者として知られる。熊本県に生まれ、三歳にして[[得度]]。慶応義塾普通部を卒業後、明治二八年(一八九五)に東京支校を修了した。同二九年に師・坂田任弘の不動寺を継承する。同三六年に不治の病に倒れるが、[[一念]][[発起]]して[[布教]]活動に邁進する。同四四年には北海道[[開教区]]に赴任し三年間活動した後、大正二年(一九一三)に東京[[十方]]寺に転住して同寺の復興に尽力する。その後は研究・執筆活動で活躍し、『[[法然]][[上人]]小伝と其[[教義]]』([[浄土教報]]社、一九二七)、『[[鎮西聖光上人の教学]]』(同、一九三一)、『麤心妙果帖』(同、一九三六)、『[[恵心]][[僧都]]の研究』(山喜房仏書林、一九三八)等の著作を残す。
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明治一一年(一八七八)三月五日—昭和三〇年(一九五五)一月六日。願西心院光[[蓮社]]正誉[[法阿]]深信。[[日本浄土教]]、特に[[聖光]]教学の研究を中心に活躍した学者として知られる。熊本県に生まれ、三歳にして[[得度]]。慶応義塾普通部を卒業後、明治二八年(一八九五)に東京支校を修了した。同二九年に師・坂田仁弘の不動寺を継承する。同三六年に不治の病に倒れるが、[[一念]][[発起]]して[[布教]]活動に邁進する。同四四年には北海道[[開教区]]に赴任し三年間活動した後、大正七年(一九一八)に東京[[十方]]寺に転住して同寺の復興に尽力する。その後は研究・執筆活動で活躍し、『[[法然]][[上人]]小伝と其[[教義]]』([[浄土教報]]社、一九二七)、『[[鎮西聖光上人の教学]]』(同、一九三一)、『麤心妙果帖』(同、一九三六)、『[[恵心]][[僧都]]の研究』(山喜房仏書林、一九三八)等の著作を残す。
 
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【参考】『鎮西聖光上人の教学』(『浄土宗学研究叢書 祖師篇』国書刊行会、一九八四)
 
【参考】『鎮西聖光上人の教学』(『浄土宗学研究叢書 祖師篇』国書刊行会、一九八四)
 
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【執筆者:郡嶋昭示】
 
【執筆者:郡嶋昭示】

2022年12月9日 (金) 08:43時点における最新版

さかたりょうこう/坂田良弘

明治一一年(一八七八)三月五日—昭和三〇年(一九五五)一月六日。願西心院光蓮社正誉法阿深信。日本浄土教、特に聖光教学の研究を中心に活躍した学者として知られる。熊本県に生まれ、三歳にして得度。慶応義塾普通部を卒業後、明治二八年(一八九五)に東京支校を修了した。同二九年に師・坂田仁弘の不動寺を継承する。同三六年に不治の病に倒れるが、一念発起して布教活動に邁進する。同四四年には北海道開教区に赴任し三年間活動した後、大正七年(一九一八)に東京十方寺に転住して同寺の復興に尽力する。その後は研究・執筆活動で活躍し、『法然上人小伝と其教義』(浄土教報社、一九二七)、『鎮西聖光上人の教学』(同、一九三一)、『麤心妙果帖』(同、一九三六)、『恵心僧都の研究』(山喜房仏書林、一九三八)等の著作を残す。


【参考】『鎮西聖光上人の教学』(『浄土宗学研究叢書 祖師篇』国書刊行会、一九八四)


【執筆者:郡嶋昭示】