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円智

提供: 新纂浄土宗大辞典

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えんち/円智

三世紀後半頃、生没年不明。徳治三年(一三〇八)までは生存していたとされる。一説では正安三年(一三〇一)没。号は恵顗えぎ。素月房。金戒光明寺五世。出生地は但馬国、平家の出であるという。両親の死後、金戒光明寺四世恵尋のもとで出家した。天台教学を学んだ後、恵尋円頓戒復興運動に賛同。諸国を歴訪し、諸宗の教学にも通暁した。良暁定慧に師事して浄土教への理解を深め、帰京後は金戒光明寺五世となった。一説によると、同寺が紫雲光明寺と号したのは彼の代からとされる。


【資料】『伝信和尚伝』(『続天台宗全書』史伝二)、『鎮流祖伝』四(浄全一七)、『黒谷光明寺誌要』(浄全二〇)


【参考】藤本了泰「黒谷金戒光明寺寺史の一考察—恵尋、恵顗の行業、寺門の三展開、寺号の事—」(正大紀要三〇・三一合併、一九四〇)


【執筆者:加藤弘孝】


—延文二年(一三五七)三月二七日。知恩院一一世。西阿法灯を継いで知恩院一一世となる。誓阿普観に跡を譲った後、鳥羽法伝寺に幽棲した。法伝寺は当初法田寺と号し真言宗であったが、円智が岩屋金峰寺の不動明王の霊夢を感得して、ここに阿弥陀堂を建立し、念仏弘通に努めたことにより法伝寺と改めたと伝える。また、山科阿弥陀寺開基。元亨元年(一三二一)に開版された『和語灯録』と『決疑鈔』に刊記を記している円智と同一人物と推定される。


【資料】『鎮流祖伝』四(浄全一七)、『総系譜』上、『華頂誌要』(共に浄全一九)、『蓮門精舎旧詞』五(続浄一八)、『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)


【執筆者:曽田俊弘】


生没年不明。中阿。義山良照の同門とされることから、一七世紀中頃から後期の人。近江国大津の人で、一二歳のときに円立の弟子となり受戒する。後に武陽、岩槻浄国寺において聞証に師事し、義山の同門となった。その後、草津正定寺(滋賀県草津市)に住して教化に励んだが、母が年老いたために故郷に戻った。そのとき、義山円智をつれて当時京都の浄教寺に住していた聞証を訪ねたところ、『四十八巻伝』の注釈をせよとの指示を受け、義山と共に『円光大師行状画図翼賛』の執筆にとりかかるも志半ばで病に倒れ没した(『翼賛』は義山が志を次いで完成させた)。他にも『西方要決略注』『当麻曼陀羅捫象ぼんぞう』一四巻を記したとされる。


【資料】『翼賛』序(浄全一六)、『総系譜』(浄全一九)


【参考】井川定慶『法然上人絵伝の研究』(法然上人伝全集刊行会、一九六一)、大島泰信編『浄土宗史』(浄全二〇)


【参照項目】➡円光大師行状画図翼賛


【執筆者:郡嶋昭示】