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「依報・正報」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

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自分自身の過去の業の報いとしてまさしく得られた[[有情]]の身心を[[正報]]といい、[[有情]]の生存のよりどころとなる山川草木などの外的な環境を依報という。依報は多数の[[有情]]が共同で造る業(<ruby>共業<rt>ぐうごう</rt></ruby>)の結果である。たとえば、『[[唯識]]二十論』において[[餓鬼]]たちが等しく水を<ruby>膿<rt>うみ</rt></ruby>と見る([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V31.0074c.html 正蔵三一・七四下])のはこの共業によるとされる。[[正報]]は[[有情]][[世間]]にあたり、依報は[[器世間]]にあたる。両者合わせて[[依正二報]]とも、依正ともいう。[[極楽浄土]]の[[正報]]は、[[阿弥陀仏]]や観音、勢至などの[[菩薩]]たち、無数の[[弟子]]([[声聞]])および神々(天)である。ただし『[[無量寿経]]』上に「その諸もろの[[声聞]]・[[菩薩]]・天・人、[[智慧]]高明に<ruby>[[神通]]洞達<rt>じんずうとうだつ</rt></ruby>し、<ruby>咸<rt>みな</rt></ruby>同じく一類にして、<ruby>形<rt>かたち</rt></ruby>異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり。…<ruby>容色微妙<rt>ようしきみみょう</rt></ruby>にして、天にあらず人にあらず」(聖典一・二四四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0017 浄全一・一七])といい、[[善導]]『[[往生礼讃]]』に「天類<ruby>豈<rt>あ</rt></ruby>に真天ならんや」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0370 浄全四・三七〇上]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V48.0445b.html 正蔵四八・四四五中])とあるように、天も人も他の[[世界]]にならって仮にその名があるだけである。すべて肌は金色で[[三十二相]]を具え、遠い前世を想起し、遠くのものを[[見聞]]きし、他人の心理を読み、遠くへ飛行して[[化身]]を造るなどの超能力([[神通]]力)や、[[無量]]の[[光明]]、[[無量]]の[[寿命]]、極まりのない[[安楽]]、すぐれた[[智慧]]をそなえ、必ず仏になることが約束された<ruby>[[不退転]]<rt>ふたいてん</rt></ruby>の境地にある。また[[地獄]]・[[餓鬼]]・[[畜生]](動物)もなく、女性も身体部位や感覚器官を欠いた者もいない。
 
自分自身の過去の業の報いとしてまさしく得られた[[有情]]の身心を[[正報]]といい、[[有情]]の生存のよりどころとなる山川草木などの外的な環境を依報という。依報は多数の[[有情]]が共同で造る業(<ruby>共業<rt>ぐうごう</rt></ruby>)の結果である。たとえば、『[[唯識]]二十論』において[[餓鬼]]たちが等しく水を<ruby>膿<rt>うみ</rt></ruby>と見る([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V31.0074c.html 正蔵三一・七四下])のはこの共業によるとされる。[[正報]]は[[有情]][[世間]]にあたり、依報は[[器世間]]にあたる。両者合わせて[[依正二報]]とも、依正ともいう。[[極楽浄土]]の[[正報]]は、[[阿弥陀仏]]や観音、勢至などの[[菩薩]]たち、無数の[[弟子]]([[声聞]])および神々(天)である。ただし『[[無量寿経]]』上に「その諸もろの[[声聞]]・[[菩薩]]・天・人、[[智慧]]高明に<ruby>[[神通]]洞達<rt>じんずうとうだつ</rt></ruby>し、<ruby>咸<rt>みな</rt></ruby>同じく一類にして、<ruby>形<rt>かたち</rt></ruby>異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり。…<ruby>容色微妙<rt>ようしきみみょう</rt></ruby>にして、天にあらず人にあらず」(聖典一・二四四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0017 浄全一・一七])といい、[[善導]]『[[往生礼讃]]』に「天類<ruby>豈<rt>あ</rt></ruby>に真天ならんや」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J04_0370 浄全四・三七〇上]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V48.0445b.html 正蔵四八・四四五中])とあるように、天も人も他の[[世界]]にならって仮にその名があるだけである。すべて肌は金色で[[三十二相]]を具え、遠い前世を想起し、遠くのものを[[見聞]]きし、他人の心理を読み、遠くへ飛行して[[化身]]を造るなどの超能力([[神通]]力)や、[[無量]]の[[光明]]、[[無量]]の[[寿命]]、極まりのない[[安楽]]、すぐれた[[智慧]]をそなえ、必ず仏になることが約束された<ruby>[[不退転]]<rt>ふたいてん</rt></ruby>の境地にある。また[[地獄]]・[[餓鬼]]・[[畜生]](動物)もなく、女性も身体部位や感覚器官を欠いた者もいない。
  
[[極楽]]の依報は、宝地・宝池・宝樹・宝楼閣・[[蓮華]]など[[国土]]にあるすべての構造物や環境である。美しく配置され、[[国土]]を飾るものであるから「<ruby>[[荘厳]]<rt>しょうごん</rt></ruby>」とも言われる。大地は平らで山や谷がなく、[[七宝]]、瑠璃あるいは黄金からなり、人々が足を降ろすと四寸沈んでは元に戻る。[[八功徳水]]をたたえた[[七宝]]の池には車輪ほどの大きさの青・黄・白・赤の蓮が咲き、同じ色の光を放つ。[[往生人]]が生まれるのはこの池の蓮の<ruby>台<rt>うてな</rt></ruby>である。池で[[沐浴]]する人は、水の深さを思い通りに変えることができる。食物、衣が自在に得られ、裁縫・洗濯の必要がない。一日に[[六度]]、天から美しい華が降り、大地に吸収される。宝樹に微風が当たると宝が互いに触れ合って天上の音楽を奏で、芳香を放ち、仏の教えを説く。仏の教えは池の水、宝楼閣内の楽器、幻の鳥たちによっても述べられる。このように依報はすべて快適なものであるが、[[煩悩]]を誘発するもの([[有漏]])でなく、それを断つためにはたらく(無漏)。また、[[極楽]][[世界]]は楽園ではなく、あくまで[[修行]]の場である。[[善導]]は『[[観経疏]]』玄義分で[[極楽浄土]]の依報を三つに大別し、「地下の[[荘厳]]」を「一切の宝幢[[光明]]の、互いに相い<ruby>映発<rt>ようほつ</rt></ruby>する等」(聖典二・一六四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0002 浄全二・二下])とし、「地上の[[荘厳]]」を「一切の宝地、池林・宝楼、宮閣等」(同)とし、「[[虚空]]の[[荘厳]]」を「一切の<ruby>[[変化]]<rt>へんげ</rt></ruby>の宝宮、華網、宝雲、化鳥、風光の<ruby>動発<rt>どうほつ</rt></ruby>せる声楽等」(同)としている。さらに『[[観経]]』に説かれる一三の観想の対象を真仮・通別に分類する。[[法然]]は『[[逆修説法]]』<ruby>五七<rt>ごしち</rt></ruby>日冒頭から、[[極楽]]の依正のすべてが[[阿弥陀仏]]の[[四十八願]]の力によることを「すべて彼の国の[[人天]]は目も鼻も我が物にあらず。皆、仏の<ruby>[[願力所成]]<rt>がんりきしょじょう</rt></ruby>の[[功徳]]なり。頭目、髄脳、五体身分、一つとして[[阿弥陀仏]]の[[願力]]にあらずということなし」(昭法全二六三)などと具体的に述べ、「惣じて此の国の中のあらゆる[[依正二報]]は、<ruby>併<rt>しか</rt></ruby>しながら[[法蔵菩薩]]の[[願力]]にこたえて成就したまえるなり。此は是れ、[[阿弥陀仏]]の[[功徳]]とほぼ<ruby>意<rt>こころ</rt></ruby>うべきをや」(同上)とまとめている。
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[[極楽]]の依報は、宝地・宝池・宝樹・宝楼閣・[[蓮華]]など[[国土]]にあるすべての構造物や環境である。美しく配置され、[[国土]]を飾るものであるから「<ruby>[[荘厳]]<rt>しょうごん</rt></ruby>」とも言われる。大地は平らで山や谷がなく、[[七宝]]、瑠璃あるいは黄金からなり、人々が足を降ろすと四寸沈んでは元に戻る。[[八功徳水]]をたたえた[[七宝]]の池には車輪ほどの大きさの青・黄・白・赤の蓮が咲き、同じ色の光を放つ。[[往生人]]が生まれるのはこの池の蓮の<ruby>台<rt>うてな</rt></ruby>である。池で[[沐浴]]する人は、水の深さを思い通りに変えることができる。食物、衣が自在に得られ、裁縫・洗濯の必要がない。一日に[[六度]]、天から美しい華が降り、大地に吸収される。宝樹に微風が当たると宝が互いに触れ合って天上の音楽を奏で、芳香を放ち、仏の教えを説く。仏の教えは池の水、宝楼閣内の楽器、幻の鳥たちによっても述べられる。このように依報はすべて快適なものであるが、[[煩悩]]を誘発するもの([[有漏]])でなく、それを断つためにはたらく(無漏)。また、[[極楽]][[世界]]は楽園ではなく、あくまで[[修行]]の場である。[[善導]]は『[[観経疏]]』玄義分で[[極楽浄土]]の依報を三つに大別し、「地下の[[荘厳]]」を「一切の宝幢[[光明]]の、互いに相い<ruby>映発<rt>ようほつ</rt></ruby>する等」(聖典二・一六四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0002 浄全二・二下])とし、「地上の[[荘厳]]」を「一切の宝地、池林・宝楼、宮閣等」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0002 同])とし、「[[虚空]]の[[荘厳]]」を「一切の<ruby>[[変化]]<rt>へんげ</rt></ruby>の宝宮、華網、宝雲、化鳥、風光の<ruby>動発<rt>どうほつ</rt></ruby>せる声楽等」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0002 同])としている。さらに『[[観経]]』に説かれる一三の観想の対象を真仮・通別に分類する。[[法然]]は『[[逆修説法]]』<ruby>五七<rt>ごしち</rt></ruby>日冒頭から、[[極楽]]の依正のすべてが[[阿弥陀仏]]の[[四十八願]]の力によることを「すべて彼の国の[[人天]]は目も鼻も我が物にあらず。皆、仏の<ruby>[[願力所成]]<rt>がんりきしょじょう</rt></ruby>の[[功徳]]なり。頭目、髄脳、五体身分、一つとして[[阿弥陀仏]]の[[願力]]にあらずということなし」(昭法全二六三)などと具体的に述べ、「惣じて此の国の中のあらゆる[[依正二報]]は、<ruby>併<rt>しか</rt></ruby>しながら[[法蔵菩薩]]の[[願力]]にこたえて成就したまえるなり。此は是れ、[[阿弥陀仏]]の[[功徳]]とほぼ<ruby>意<rt>こころ</rt></ruby>うべきをや」(同上)とまとめている。
 
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【参考】藤田宏達『善導』(『人類の知的遺産』一八、講談社、一九八五)、眞柄和人訳註『傍訳逆修説法』上・下(四季社、二〇〇六・二〇〇七)
 
【参考】藤田宏達『善導』(『人類の知的遺産』一八、講談社、一九八五)、眞柄和人訳註『傍訳逆修説法』上・下(四季社、二〇〇六・二〇〇七)

2018年9月16日 (日) 10:11時点における版

えほう・しょうぼう/依報・正報

自分自身の過去の業の報いとしてまさしく得られた有情の身心を正報といい、有情の生存のよりどころとなる山川草木などの外的な環境を依報という。依報は多数の有情が共同で造る業(共業ぐうごう)の結果である。たとえば、『唯識二十論』において餓鬼たちが等しく水をうみと見る(正蔵三一・七四下)のはこの共業によるとされる。正報有情世間にあたり、依報は器世間にあたる。両者合わせて依正二報とも、依正ともいう。極楽浄土正報は、阿弥陀仏や観音、勢至などの菩薩たち、無数の弟子声聞)および神々(天)である。ただし『無量寿経』上に「その諸もろの声聞菩薩・天・人、智慧高明に神通洞達じんずうとうだつし、みな同じく一類にして、かたち異状なし。ただ余方に因順するが故に、天・人の名あり。…容色微妙ようしきみみょうにして、天にあらず人にあらず」(聖典一・二四四/浄全一・一七)といい、善導往生礼讃』に「天類に真天ならんや」(浄全四・三七〇上正蔵四八・四四五中)とあるように、天も人も他の世界にならって仮にその名があるだけである。すべて肌は金色で三十二相を具え、遠い前世を想起し、遠くのものを見聞きし、他人の心理を読み、遠くへ飛行して化身を造るなどの超能力(神通力)や、無量光明無量寿命、極まりのない安楽、すぐれた智慧をそなえ、必ず仏になることが約束された不退転ふたいてんの境地にある。また地獄餓鬼畜生(動物)もなく、女性も身体部位や感覚器官を欠いた者もいない。

極楽の依報は、宝地・宝池・宝樹・宝楼閣・蓮華など国土にあるすべての構造物や環境である。美しく配置され、国土を飾るものであるから「荘厳しょうごん」とも言われる。大地は平らで山や谷がなく、七宝、瑠璃あるいは黄金からなり、人々が足を降ろすと四寸沈んでは元に戻る。八功徳水をたたえた七宝の池には車輪ほどの大きさの青・黄・白・赤の蓮が咲き、同じ色の光を放つ。往生人が生まれるのはこの池の蓮のうてなである。池で沐浴する人は、水の深さを思い通りに変えることができる。食物、衣が自在に得られ、裁縫・洗濯の必要がない。一日に六度、天から美しい華が降り、大地に吸収される。宝樹に微風が当たると宝が互いに触れ合って天上の音楽を奏で、芳香を放ち、仏の教えを説く。仏の教えは池の水、宝楼閣内の楽器、幻の鳥たちによっても述べられる。このように依報はすべて快適なものであるが、煩悩を誘発するもの(有漏)でなく、それを断つためにはたらく(無漏)。また、極楽世界は楽園ではなく、あくまで修行の場である。善導は『観経疏』玄義分で極楽浄土の依報を三つに大別し、「地下の荘厳」を「一切の宝幢光明の、互いに相い映発ようほつする等」(聖典二・一六四/浄全二・二下)とし、「地上の荘厳」を「一切の宝地、池林・宝楼、宮閣等」()とし、「虚空荘厳」を「一切の変化へんげの宝宮、華網、宝雲、化鳥、風光の動発どうほつせる声楽等」()としている。さらに『観経』に説かれる一三の観想の対象を真仮・通別に分類する。法然は『逆修説法五七ごしち日冒頭から、極楽の依正のすべてが阿弥陀仏四十八願の力によることを「すべて彼の国の人天は目も鼻も我が物にあらず。皆、仏の願力所成がんりきしょじょう功徳なり。頭目、髄脳、五体身分、一つとして阿弥陀仏願力にあらずということなし」(昭法全二六三)などと具体的に述べ、「惣じて此の国の中のあらゆる依正二報は、しかしながら法蔵菩薩願力にこたえて成就したまえるなり。此は是れ、阿弥陀仏功徳とほぼこころうべきをや」(同上)とまとめている。


【参考】藤田宏達『善導』(『人類の知的遺産』一八、講談社、一九八五)、眞柄和人訳註『傍訳逆修説法』上・下(四季社、二〇〇六・二〇〇七)


【参照項目】➡極楽


【執筆者:本庄良文】