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「二種疑心」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
 
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[[念仏]]する者が[[安心]]と[[起行]]とに[[疑心]]を持つこと。[[聖光]]は『[[念仏三心要集]]』で「疑に二有り。一に[[安心]]の[[疑心]]。二に[[起行]]の[[疑心]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0395 浄全一〇・三九五上])と言い、「[[乃至]][[一念]]無有[[疑心]]というは[[本願]]を疑わざるすがた也。仏の[[本願]]の方よりは[[一念]]に[[往生]]の大事をあてがいて[[心行具足]]しぬれば、[[一念]]も[[往生]]不足有るべからずと思うを[[乃至]][[一念]]無有[[疑心]]と云う也」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0364 浄全一〇・三六四])として、疑う心のない[[安心]]・[[起行]]を強調している。三祖[[良忠]]は『疑問鈔』下で[[安心]]の[[疑心]]を機と法を信じないこととする。また[[起行]]の[[疑心]]については、これを二種に分け、[[三心]]を具えているが自身が[[凡夫]]であるから[[往生]]できないと疑うものと、[[三心]]もなく[[往生]]を疑うものとに分けている。[[良忠]]は[[起行]]の[[疑心]]の内、前者は[[往生]]ができ、後者はできないと述べ、[[安心]]の[[疑心]]と[[起行]]の[[疑心]]による[[往生]]の可否を論じている。
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[[念仏]]する者が[[安心]]と[[起行]]とに[[疑心]]を持つこと。[[聖光]]は『[[念仏三心要集]]』で「疑に二有り。一に[[安心]]の[[疑心]]。二に[[起行]]の[[疑心]]なり」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0395 浄全一〇・三九五上])と言い、「[[乃至]][[一念]]無有[[疑心]]というは[[本願]]を疑わざるすがた也。仏の[[本願]]の方よりは[[一念]]に[[往生]]の大事をあてがいて[[心行具足]]しぬれば、[[一念]]も[[往生]]不足有るべからずと思うを[[乃至]][[一念]]無有[[疑心]]と云う也」([http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J10_0395 浄全一〇・三九五上])として、疑う心のない[[安心]]・[[起行]]を強調している。三祖[[良忠]]は『疑問鈔』下で[[安心]]の[[疑心]]を機と法を信じないこととする。また[[起行]]の[[疑心]]については、これを二種に分け、[[三心]]を具えているが自身が[[凡夫]]であるから[[往生]]できないと疑うものと、[[三心]]もなく[[往生]]を疑うものとに分けている。[[良忠]]は[[起行]]の[[疑心]]の内、前者は[[往生]]ができ、後者はできないと述べ、[[安心]]の[[疑心]]と[[起行]]の[[疑心]]による[[往生]]の可否を論じている。
 
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【参照項目】➡[[疑心]]、[[疑心往生]]
 
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【執筆者:藤本淨彦】
 
【執筆者:藤本淨彦】

2021年11月24日 (水) 07:06時点における最新版

にしゅぎしん/二種疑心

念仏する者が安心起行とに疑心を持つこと。聖光は『念仏三心要集』で「疑に二有り。一に安心疑心。二に起行疑心なり」(浄全一〇・三九五上)と言い、「乃至一念無有疑心というは本願を疑わざるすがた也。仏の本願の方よりは一念往生の大事をあてがいて心行具足しぬれば、一念往生不足有るべからずと思うを乃至一念無有疑心と云う也」(浄全一〇・三九五上)として、疑う心のない安心起行を強調している。三祖良忠は『疑問鈔』下で安心疑心を機と法を信じないこととする。また起行疑心については、これを二種に分け、三心を具えているが自身が凡夫であるから往生できないと疑うものと、三心もなく往生を疑うものとに分けている。良忠起行疑心の内、前者は往生ができ、後者はできないと述べ、安心疑心起行疑心による往生の可否を論じている。


【参照項目】➡疑心疑心往生


【執筆者:藤本淨彦】