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一条派

提供: 新纂浄土宗大辞典

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いちじょうは/一条派

鎮西流良忠門下の六派の一つ。派祖は礼阿らいあ然空。派名は同派の拠点となった京都清浄華院(当時は浄華院)の所在地名による。然空比叡山に学んだ後、鎌倉に下って良忠に三年間師事し浄土宗義を学んだ。その後帰洛し、京都仁和寺にんなじ西谷法光明院を拠点に布教した。一条派が有名になったのは、浄華院を中心に活躍した弟子向阿証賢のときである。向阿には『三部仮名鈔』『浄土四要義』『往生至要訣』などの著作があるが、特に『三部仮名鈔』は文字通り仮名で書かれており、彼の幅広い層への布教方針が垣間見える。この向阿が実質的開山となったのが浄華院である。浄華院円仁開山法然中興とされているが、「浄華院」の初見は元弘三年(一三三三)であり(『清浄華院文書』)、向阿の三井寺時代の房号「浄花房」(『真如堂縁起』)に由来すると考えられる。その後、浄華院は足利尊氏による等持寺建立のため、土御門(一条)室町に移転させられ、そこから一条派と呼ばれるようになる。浄華院知恩寺よりもさらに幕府・朝廷と近い場所にあり、当時の京都浄土宗の中心寺院であった。向阿の流れに一〇世等熈とうきがいる。等熈は公家万里までの小路こうじ家の出身と伝えられ、朝廷や幕府と深い関わりを持った人物であった。称光天皇の病気を治したり、後小松上皇に円頓戒を授けたりするなど天皇から厚い帰依を受け、後花園天皇から香衣綸旨りんじを賜ったが、これは黒衣遁世僧集団たる浄土宗では初めてのことであった。等熈は没後に「仏立慧照国師」を加諡されるが、これも浄土宗では初めてのことであった。このように等熈の時代が一条派の全盛時代と言える。その後の一条派は、近世初頭に道残が筆頭末寺たる金戒光明寺を拠点に活動し、浄華院末寺を多く引き連れ独立してしまった。現在は北陸や山陰など日本海沿岸に旧末寺が多く残っている。


【参考】中井真孝「中世の浄華院について」(『法然伝と浄土宗史の研究』思文閣出版、一九九四)、宇高良哲「浄土宗京都浄華院成立年次考」(正大紀要七一、一九八六)、中野正明「中世の浄華院と金戒光明寺」(伊藤唯眞編『日本仏教の形成と展開』法蔵館、二〇〇二)


【参照項目】➡良忠門下の六派向阿然空清浄華院等熈


【執筆者:伊藤真昭】