百万遍念仏
提供: 新纂浄土宗大辞典
ひゃくまんべんねんぶつ/百万遍念仏
浄土往生・先亡供養・除災招福のために一〇〇万遍の念仏を称えること。単に百万遍ともいう。一人で七日間または一〇日間と限って一〇〇万回の念仏を称える場合(如法真修もしくは顆繰)と、一〇人またはそれ以上の集団で称える念仏の合計を一〇〇万回とする場合(略法草修もしくは早繰)がある。実際には、念仏の総計が一〇〇万回に達していなくとも百万遍念仏とすることが多く、正確な称名回数は問題としないこともある。一〇〇万回の念仏を称えることは『木槵子経』に説かれているが、中国において念仏の数量を問題にしたのは道綽である。その後、迦才は『浄土論』のなかで「阿弥陀仏を念じ百万遍已去を得、決定して極楽世界に生ずることを得」(浄全六・六四〇上/正蔵四七・八九中)とし、百万遍念仏をもって往生浄土の業と位置づけた。日本においても平安中期以降、百万遍念仏は盛んとなり、『続本朝往生伝』『拾遺往生伝』『後拾遺往生伝』『三外往生記』『高野山往生伝』などに百万遍念仏信仰が記載されている。元弘元年(一三三一)、疫病が流行したため後醍醐天皇は勅によって宮中紫宸殿で七日七夜を期間として知恩寺善阿空円に百万遍念仏を修させたところ、疫病が収まった。その功により知恩寺は「百万遍」の寺号と弘法大師利剣の名号を授かった。それ以来、浄土宗では百万遍念仏が広まっていった。知恩院五六世教意は天井から大念珠をつるし独自で夜百万遍念仏を修したとされる。現在では宗派を問わず修されているが、多くは略法草修で行われる。百万遍念仏は自らの願往生のほかに、通夜や葬儀、中陰の逮夜、年忌、春秋彼岸などにおいて先亡追善のために修されたり、農作物の豊作に関する虫送り念仏・雨乞い念仏、天災・病気に関する悪疫退散・無病息災などを願う際にも行われている。
【参考】佛教大学民間念仏研究会編『民間念仏信仰の研究 資料編』(隆文館、一九六六)、三田全信『増補改訂 浄土宗史の諸研究』(同、一九八〇)、伊藤祐晃『浄土宗史の研究 浄土宗学研究叢書宗史・宗論篇』(国書刊行会、一九八四)
【参照項目】➡百万遍数珠
【執筆者:江島尚俊】