霊巌寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
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れいがんじ/霊巌寺
一
東京都江東区白河。道本山東海院。東京教区№二一六。関東十八檀林の一。開山は霊巌。霊巌は寛永元年(一六二四)沼地を埋めたて一寺を建立。布教に専心したため、道俗の参詣人が多く、境内が狭くなった。同五年幕府の許可をえて、さらに埋めたて寺地を拡張。諸堂舎が整備され、檀林として教育の道場となり、道誉流伝法の中心寺院となった。明暦三年(一六五七)大火にあって伽藍を焼失したが、万治元年(一六五八)深川海辺新田に替地を賜り、二世珂山、弟子珂碩の功績によって復興された。この後、雄松院、長専院、済松院の三別院ができ、正覚院など子院八院、桜谷北など七谷に九〇の学寮ができ、江戸檀林として隆盛をきわめた。寛文五年(一六六五)五〇石の朱印状をもらった。その後再三にわたる火災にあって焼失。規模が縮小された。
【資料】『深川霊巌寺志』(浄全二〇)
【参考】宇高良哲『関東浄土宗檀林古文書選』(東洋文化出版、一九八二)【図版】巻末付録
【執筆者:宇高良哲】
二
中国江蘇省蘇州西南一三キロの霊巌山に位置する。秀峰寺また崇報寺とも呼ばれる。呉王夫差と西施美人とが愛の生活を楽しんだ宮殿の遺跡に、東晋の司空の陸玩が自宅を喜捨し創建したと伝えられる。清代初期に弘儲がここに住し大いに宣教し、殿堂寮舎を一新したが、咸豊一〇年(一八六〇)、戦禍により毀損。その後、宣統三年(一九一一)に真達が入山し復興に着手した。民国になって中国浄土宗一三祖と仰がれる印光がここを十法専修浄土道場とし浄土念仏の中心地とし専修念仏を実践・教化した。真達・印光、そして人民共和国成立後にも住持を務めた妙真の努力により諸堂宇が完成し、江南地方を代表する大寺院となり、大雄殿、念仏堂、智積殿、弥勒閣等の諸堂が並ぶ。
【資料】「霊巌寺永作十方専修浄土道場及此次建築功徳碑」「霊巌山寺専修浄土道場念誦儀規序」(『印光法師文鈔』続篇巻下、蘇州弘化社、一九四〇)
【参考】牧田諦亮「第八章 新しき時代と仏教」(中村元他編『アジア仏教史』中国篇Ⅱ・民衆の仏教、佼成出版社、一九七六)
【参照項目】➡霊巌寺念誦儀規
【執筆者:佐藤成順】