誕生寺
提供: 新纂浄土宗大辞典
たんじょうじ/誕生寺
一
岡山県久米郡久米南町誕生寺里方。栃社山浄土院。浄土宗特別寺院。法然上人二十五霊場第一番。法然生誕の遺跡。誕生時に奇瑞があった両幡の椋の木を人が崇めて仏閣を建て誕生寺と号し御影堂を造ったという(『四十八巻伝』一)。しかし、江戸期の記録では、漆間時国が天台宗浄土院の本尊釈迦像と院主を共に迎え誕生寺を創建、承安五年(一一七五)法然が直作の御影を送り本尊としたとも(『浄土宗寺院由緒書』下)、また、同五年法然が帰郷し、時国の念持仏の阿弥陀仏を本尊として創建、自作の御影も遺したともいう(『作陽誌』二)。さらに、熊谷直実が御影を持参した伝承もある(『翼賛』五〇)。鎌倉後期作と推定される阿弥陀仏像の胎内納入摺仏に「法然上人御生所御本尊」の墨書があり、この像と当寺の創建との関わりが推定される。永禄一二年(一五六九)久米郡稲荷山城主原田貞佐は御影堂を再建し、慶長九年(一六〇四)津山藩主森忠政は寺領五〇石を与え、寛文五年(一六六五)阿弥陀堂再建や元禄元年(一六八八)鐘楼堂再建など森氏一族の外護を得た。同六年春に江戸回向院、秋に京都長楽寺で御影の出開帳を行い、その奉加金で同八年御影堂を再建し、同一二年寺領は幕府の朱印地となった。御影堂・山門は国重要文化財。毎年四月第三日曜日の法然の両親追恩のための二十五菩薩練供養は岡山県重要無形民俗文化財に指定。
【資料】『蓮門精舎旧詞』三三(続浄一九)、『浄土宗寺院由緒書』下(『増上寺史料集』七)、『美作誕生寺文書』(『岡山県古文書集』四、思文閣出版、一九八一)
【参考】北山敏雄『郷土の法然上人と誕生寺今昔物語』(久米南町偉人顕彰会、一九七六)、水野恭一郎「『廿五箇所案内記』〈誕生寺〉—その草創と中興—」(『藤堂恭俊博士古稀記念 浄土宗典籍研究』研究篇、藤堂恭俊博士古稀記念会、一九八八)【図版】巻末付録
【参照項目】➡特別寺院
【執筆者:山本博子】
二
茨城県常陸大宮市上岩瀬。御城山東泉院。茨城教区№六。聖冏誕生の地に建立された寺。応永(一三九四—一四二八)の末頃、瓜連常福寺三世明誉了智が一宇を建立して聖冏の尊像を安置したがまもなく廃絶。永正八年(一五一一)高明が復興したが再び廃絶した。寛文二年(一六六二)常福寺一八世真誉相閑が再興し光明寺と称したが、元禄一三年(一七〇〇)徳川光圀が誕生寺と改称させ、寺領七石を寄進した。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』中(『増上寺史料集』六)、『瓜連常福寺志』(浄全一九)
【参考】茨城県史編さん委員会『茨城県史』中世編(茨城県、一九八六)
【執筆者:𠮷水成正】