因分可説・果分不可説
提供: 新纂浄土宗大辞典
いんぶんかせつ・かぶんふかせつ/因分可説・果分不可説
中国華厳教学の大成者法蔵(六四三—七一二)の初期の著作『華厳五教章』建立乗第一に出る一句。毘盧遮那仏の悟りの果分は説くことができないが、それに至る菩薩行の因分は説くことができるという意味。法蔵は「『地論』に〈因分は可説にして、果分は不可説なり〉と言う」(正蔵四五・四七七上)とする。『十地経論』には因分と果分の対応は出るが、同じ文章はない。本論に「一分とは是れ因分なり。果分において一分と為るが故に〈我は但だ一分を説くのみ〉と言う」(正蔵二六・一三四上)と釈する。果分は説きがたいが、果分の中の一分を因分の菩薩行として示す。法蔵は果分の不可説性を華厳一乗の高い教えの証明としてこの語を強調した。この一句について最澄・空海両者は、華厳では果分不可説と言うが、自らの立場は果分可説であると述べ、自説の高さを強調し、法蔵の華厳教学を共通に批判する。
【参考】吉津宜英『華厳一乗思想の研究』(大東出版社、二〇〇三)、木村清孝『中国華厳思想史研究』(平楽寺書店、一九九二)、大竹晋『初期華厳教学の研究』(大蔵出版、二〇〇七)
【執筆者:吉津宜英】