信教の自由
提供: 新纂浄土宗大辞典
しんきょうのじゆう/信教の自由
どのような宗教を信じるかは個人の自由であるということ。信じない自由も含む。歴史的には、欧州における近世以降のカトリックとプロテスタントの対立状況の中で要請された基本的人権である。誤解されやすい点だが、現代世界では、イギリスのように、国教制をとる国でも個人の信仰の選択は自由であるケースがある。日本は政教分離制であるため、信教の自由は、国家や公的機関が特定の宗教を優遇したり逆に迫害したりすることを禁じる原則を伴っている。このことが定められているのが憲法第二〇条、第八九条である。民主主義社会において、一見自明の権利だが、実際には複雑な問題をはらんでいる。例えば、エホバの証人の信者が、信仰を理由に学校の剣道の授業を拒否することを認めた最高裁判決がある(平成六年〔一九九四〕神戸高専事件)。これに対しては、特定教団を優遇しているという批判があった。しかし、これはたまたまその教団の信者のみが拒否権を主張したため、特別扱いを受けているように見えたに過ぎない。もし他の教団の信者が武術の実技を拒んだならば、その権利をも平等に認めるというのが、(アメリカをモデルとした)日本の政教分離の考え方である。特定の宗教教団にのみ権利を認めては危険だという意見もあるが、どの教団が正統な宗教で、どの教団が誤った宗教かは、国家や公的機関が判断することではないというのが憲法上の立場である。学問上は、このような問題は、「宗教」という概念(宗教そのものではない)が相対的であることに由来している。このように戦後の日本では信教の自由が保障されてきたが、平成七年(一九九五)のオウム真理教事件以降、新宗教教団の活動の自由が認められすぎているとの批判が起こり、宗教法人法の改正に至った。その結果、一部の教団のみならず宗教界全体に対して政府による管理が強化されたという問題が指摘されている。
【参考】洗建『宗教と法制度』(相国寺教化活動委員会、二〇〇〇)、W. F. Sullivan: The Impossibility of Religious Freedom, Princeton U. P., 2005.
【参照項目】➡政教分離
【執筆者:藤原聖子】