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龍門石窟

提供: 新纂浄土宗大辞典

りゅうもんせっくつ/龍門石窟

中国河南省洛陽市の南約一三キロに位置する伊水の東西両岸にある洞窟群の総称。莫高窟ばっこうくつ敦煌)・雲崗うんこう石窟(大同)とともに中国三大石窟の一つで、二〇〇〇年にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。そもそも洛陽は多くの王朝の都がおかれ仏教の盛んな地域であったため、そうした各時代の仏教徒による仏教信仰が造形として表現されたのがこの龍門石窟である。その歴史は北魏が大同から洛陽に遷都した太和一八年(四九四)にまでさかのぼり、降って北朝から隋唐を経て北宋にいたるまで、長い年月をかけて数多くの石窟が開鑿かいさくされた。その規模は全長一キロにわたっており、東西両岸にある石窟は約二一〇〇を数え、そこに一〇万をこえる仏菩薩像、三六〇〇以上の造像題記が現存している。そうした数多くの石窟の中でも、最初期の北魏時代の石窟としては古陽洞・賓陽洞・蓮華洞がとくに有名であり、さらに北斉から隋にかけては薬方洞、そして唐代では敬善寺洞・万仏洞・看経寺洞などがある。なお、龍門における最大規模の石窟は唐代の奉先寺洞である。この石窟には、咸亨三年(六七二)四月一日に着工し、上元二年(六七五)一二月三〇日に完成した大盧舎那仏像が祀られているが、この仏像善導とのかかわりで重要である。像の台座左側面にある『河洛上都龍門之陽 大盧舎那造龕ぞうがん記』によると、唐朝三代皇帝高宗李治の発願によって建造され、則天武后も脂粉銭二万貫を寄進して完成させている。その検校僧に抜擢されたのが実際寺の善道(善導)であった。仏像の高さは後背を含めて約二〇メートル、仏龕の奥行きは三八・七メートル、南北の幅は三三・五メートルで、仏像の両側には大迦葉と阿難、文殊と普賢の像、さらに力士や寄進者らの姿までそなえた大仏龕である。そして調露元年(六七九)にはこの像の南に大奉先寺が建造されたという。なお、これら龍門における一々の石窟内部の造像のみならず、造像の台座やその近くに刻記された題記は、中国仏教史だけでなく書道史においても貴重な史料となっている。世に龍門二十品や龍門五十品と称されるものがそれである。


【参考】水野清一・長広敏雄『河南洛陽龍門石窟の研究』(座右宝刊行会、一九四一)、龍門文物保管所・北京大学考古系編『中国石窟龍門石窟』一(平凡社、一九八七)【図版】巻末付録


【執筆者:齊藤隆信】