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香積寺

提供: 新纂浄土宗大辞典

こうしゃくじ/香積寺

中国西安市の南方約五〇キロの神禾原しんかげんにある寺。唐・永隆二年(六八一)創建。宋代には開利寺と改名されたがまた旧名に復す。善導埋葬の地。「大唐実際寺故寺主懐惲奉勅隆闡大法師碑銘」(陝西省博物館碑林室に現存)によると、善導に一〇年以上にわたり師事した懐惲えうんが、長安の南の神禾原に善導埋葬する霊塔を造り、霊塔の側に立派な伽藍を建て、また寺内に一三級の大塔を建立した。これが香積寺の起源である。唐代には王維や王昌齢が香積寺を詠じた詩を残している。宋代になると荒廃し、大塔の中央に亀裂が入り、寺内は荒涼とし、訪れる人も少なかったという(張礼『游城南記』)。清の乾隆三二年(一七六七)に補修されたが亀裂はそのままであった。二〇世紀に入り、日本の関野貞が明治三九年(一九〇六)に香積寺の実地調査を行い、その調査報告を常盤大定・関野貞共著の『中国文化史蹟』九(法蔵館、一九七六)ならびに解説篇下に収載する。続いて同四二年一月一八日に足立喜六が当寺を訪れ現況をその著『長安史蹟の研究』(東洋文庫、一九三三)に報告している。その約七〇年後の昭和五三年(一九七八)一〇月一四日に浄土宗の第一次訪中団が香積寺に参拝し、同五五年には整備の進んだ香積寺において浄土宗訪中団により善導大師一三〇〇年遠忌が勤修された。その後の寺院の整備は著しい。


【資料】宋敏求『長安志』


【参考】孫浮生『中国浄土教論集』(文化書院、一九八五)


【執筆者:佐藤成順】