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津戸の三郎へつかわす御返事

提供: 新纂浄土宗大辞典

つのとのさぶろうへつかわすおへんじ/津戸の三郎へつかわす御返事

法然述。在俗の帰依者であった津戸三郎からの手紙に対する法然の返信。「津戸三郎に答ふる書」ともいう。全部で九通が伝わる。①「四月二十六日付」②「九月十八日付」③「九月二十八日付」④「十月十八日付」⑤「戒・袈裟等乞はれける時の消息」⑥「念珠所望しける時の消息」⑦「ある時の消息」⑧「真影所望しける時の消息」⑨「八月二十四日付」。①③④は『拾遺和語灯録』中などに、②は『西方指南抄』下末、『和語灯録』四などに、⑤~⑧は『九巻伝』九下などに、⑨は『九巻伝』六下、『四十八巻伝』三五に収録される。①は病気見舞いに対する返礼の手紙である。病状と治療方法について報告した後、上京しての見舞いなど不要で、むしろ念仏に励むよう勧める。建久九年(一一九八)の病状に近似するので、この年の成立か。②は津戸や熊谷は無智だから法然は彼らに念仏のみを勧めたという噂を全面否定する前半と、念仏と余行の関係などに関する五箇条の後半とからなる。なお、この手紙は『鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事』と相当に類似していることが指摘されている。成立年は『和語灯録』所収本に感西が代筆したとあることからして、津戸入室の建久六年(一一九五)から、感西の亡くなる正治二年(一二〇〇)までの成立ということが考えられる。③は津戸が郷里で三十余人を専修念仏に導き入れたことへの讃辞、無智ゆえに念仏のみを勧めたという噂が間違っていることの強調とその理由、そして「念仏の要文」所望に対する返事の三段からなる。成立年次は不明なものの、内容的な関連性からして②と相前後しての成立の可能性がある。④は『九巻伝』四下、『四十八巻伝』二八に成立の経緯が示されている。元久二年(一二〇五)秋、「津戸が専修念仏を弘め、他宗誹謗・余行廃捨をしようとしている」ということを幕府に訴える者があり、幕府から津戸に対し呼び出しがあるかもしれないと噂された。そこで津戸は呼び出された時にどのように答えたらよいのかを法然に尋ねてきた。それに対する返書が本書状とされる。書状の内容からすると、津戸は想定問答を仮名と漢文で示してほしいと依頼したようであるが、法然は「私はよく知らない。法然上人がそう仰ったので、それは素晴らしいことだと信じて、その通り修しているだけです」と答えなさいとのみ示す。とはいえ、教えについても少し触れられ、念仏以外に往生の道はないこと、その専修弥陀化身である善導の勧めであるので間違いないことを説き明かし、その証拠として信仲専修正業文』を用いるようにと勧める。⑤は出家を希望していた津戸へ、戒・袈裟法名を授ける手紙である。⑥は津戸の法然に対する厚情の返礼として自身が使っていた数珠を送る際の添え状。⑦はせっかく受け難き人身を受けたのだから往生を目指して念仏すべきことを説く消息。⑧は真影の所望に対し、代わりに善導御影を拝むべきことを説く返状で、⑥~⑧は非常に短い。⑨は配流見舞いに対する法然からの礼状である。よって、配流の年の承元元年(一二〇七)の書状ということになる。配流の憂き目に遭うのも穢土の習いであって、だからこそかえって往生が願わしく思えること、またこの法難を遺恨に思ってはいけないことが示される。


【所収】聖典四、昭法全


【参考】梶村昇『津戸三郎為守』(東方出版、二〇〇〇)、同「津戸宛〈九月十八日付消息〉」(『浄土宗学研究』二〇、一九九四)、同「津戸宛〈九月二十八日付消息〉」(『浄土宗学研究』二一、一九九五)


【参照項目】➡津戸三郎為守鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事


【執筆者:安達俊英】