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夢窓疎石

提供: 新纂浄土宗大辞典

むそうそせき/夢窓疎石

建治元年(一二七五)—観応二年(一三五一)九月三〇日。臨済宗仏光派の僧。号は夢窓、いみな疎石。夢窓はあわせて七つの国師号をもち七朝帝師といわれる。伊勢に生まれ、九歳で出家し天台を学ぶが、二〇歳で禅宗に転じる。鎌倉で高峰顕日から法を嗣ぎ、甲斐・美濃・相模・土佐などに住するが、後醍醐天皇の請により正中二年(一三二五)に南禅寺に入った。翌年、北条高時に招かれ鎌倉に帰る。鎌倉幕府滅亡後には南禅寺に再住し、建武政権瓦解後は足利尊氏・直義兄弟の帰依を受け、全国に安国寺・利生塔を建立した。天龍寺開山となり、天龍寺庭園を造営。和歌や漢詩文にもすぐれ、禅と密教を融合させた穏やかな禅風で春屋妙葩しゅんおくみょうはをはじめとする一万を超える門弟を育て、その後の五山禅林の最盛期をつくりだした。足利直義に答えた『夢中問答集』三巻では、「〔大乗の法門は〕難行なれば、念仏の行を修すべしといえるは、誹謗大乗の人なり」(下巻・第八二問答)と述べ浄土門に批判的であった。浄土宗澄円は『夢中松風論』三巻一〇冊を著して反論し、夢窓は応じて『谷響集』一巻を書いた。


【参考】川瀬一馬校注・現代語訳『夢中問答集』(講談社学術文庫、二〇〇〇)


【参照項目】➡夢中問答集夢中松風論


【執筆者:西村玲】