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一田善寿

提供: 新纂浄土宗大辞典

いちたぜんじゅ/一田善寿

明治四〇年(一九〇七)九月二九日—昭和六一年(一九八六)三月三〇日。還蓮社愚誉念阿牛畝。大僧正正司教擬講大本山善導寺三世宗門功労者。福岡県糟屋郡志免しめ村田富(現・志免町)に生まれる。大正八年(一九一九)久留米無量寺の堤善学について得度。昭和二年(一九二七)福岡県立明善校を卒業。同年正定寺(福岡市博多区中呉服町)一田賢翁に師僧変更し養子となる。同六年大正大学を卒業、その後知恩院山内専修道場宗乗を修めた。同八年正定寺住職就任。同一六年招集を受け満州に出征。同二〇年福岡教区長に就き以降一三期三八年間務める。ほか保護司、善導寺協議会議長、教誨師知恩院執事、特定布教師、西部布教師会副会長、門主代理布教師吉水講九州地区本部長、教誨師会理事長、芸術家協会常任理事、布教師会九州支部長、門主推戴委員長などを歴任した。同五七年七月一日善導寺晋董五重相伝の勧誡をはじめ、布教の第一線に立ち独特の節談ふしだん説法を展開した。俳号を牛畝ぎゅうほと号した。ホトトギス同人で、句誌『冬野』の選者を務めた。著書に『句心仏心・十人の死刑囚』や『花瓜』がある。俳句をもって受刑者の善導に努めた。浄土宗の功労者として、社会の指導者として、法務大臣表彰、藍綬褒章、福岡市文学賞、浄土門主功労賞、勲五等瑞宝章などの表彰を受けた。


【執筆者:行正明弘】