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J3060 浄土宗史 本会 画像

続浄の割書は、青字で小さく表示。

巻_頁段行 本文
J20_0672A01: 督して頌義底本を修成し。又頌義拔萃を刊行して學
J20_0672A02: 徒に便せり。
J20_0672A03: 大玄一六七七 一七五六成譽と號す。下野國氏家郷の人。十
J20_0672A04: 五歳同國黑羽長松院俊能に就き得度す。次で飯沼に
J20_0672A05: 於て祐天に師事す。同上人の傳通院に移るや又之に
J20_0672A06: 隨從す。後京都奈良に遊學し性相を研覈し又戒範を
J20_0672A07: 索究す。毎に宗門圓戒の廢退を慨き之が恢復を志
J20_0672A08: し。又冏師の頌義が二祖三代の定判と往往鉾楯する
J20_0672A09: を見て探玄鈔三卷を作りて之が通釋を試み。元文五
J20_0672A10: 年始めて結城弘經寺に法幢を建て。延享二年新田大
J20_0672A11: 光院に轉じ。寬延三年傳通院に再轉し。寶曆三年遂
J20_0672A12: に增上寺に晋山す。縁山董職以來圓布顯正記。圓戒
J20_0672A13: 歸元鈔等を著し。圓戒羯磨の復興に盡瘁し。次で寶
J20_0672A14: 曆五年正八の檀林會議に。十二門戒儀を以て圓戒傳
J20_0672A15: 授すべきこと。璽書の傳受及布薩戒も日課增進の爲
J20_0672A16: に猶存すべきことを決議せり。此に多年の宿志を果遂
J20_0672A17: せしが。其翌六年八月四日七十七歳を以て入寂す。是
J20_0672B18: より先律院建立の願を發し。假に目黑蟠龍寺を經營
J20_0672B19: し。奧州の不能和尚を請して住せしめ。次で本院を
J20_0672B20: 經營せんとして果さず。遺弟千如命を奉じて之を
J20_0672B21: 經營す。即是目黑長泉院なり。平生著す所上揭の
J20_0672B22: 外。蓮門學則。宗戒初學鈔。圓戒略撰。圓戒問答。
J20_0672B23: 圓戒啓蒙。圓戒餘説。布薩料簡鈔。布薩初學鈔。布
J20_0672B24: 薩戒講義。古本戒儀授法記。五重綱要義。十念辨等
J20_0672B25: あり。
J20_0672B26: 定月一六六七 一七五〇妙譽と號す。伊勢國二見の人。十二
J20_0672B27: 歳郷の西光寺定祐に投じて出家し。幾もなく東遊し
J20_0672B28: て縁山南溪梁道の寮に止住し。宗乘の傍餘乘外典を
J20_0672B29: 研究す。梁道の小金東漸寺に住するや隨從して其敎
J20_0672B30: 化を翼け。其沒後縁山に還り維摩倶舍唯識等を講
J20_0672B31: じ。又天台十不二門指要鈔を講ずる十數回に及ぶ。
J20_0672B32: 寬保二年小金に出世し。常福寺傳通院を經昇して。
J20_0672B33: 寶曆六年大玄の後を襲ひ縁山に晋む。在住十一年に
J20_0672B34: して明和三年辭退。麻布に隱居し。同八年八十四歳

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