欲望のままに活動し、善を修することに対してだらしなく、精進を怠ること、怠けること。Ⓢpramāda。『俱舎論』四に「逸は謂わく、放逸なり。諸の善を修せざるなり、是れは諸善を修する所対治の法なり」(正蔵二九・一九下)とあるように、アビダルマでは五位七十五法の心所における大煩悩地法だいぼんのうじほうの一つで、大善地法に属する不放逸Ⓢapramādaと反対の法である。唯識では、随煩悩の一つに数える。
【資料】『法華経』一、『集異門論』二、『往生礼讃私記拾遺鈔』下
【執筆者:薊法明】