阿弥陀仏の四十八願は、すべて衆生を救済するためにあるという意味。『観経流』散善義において「かの阿弥陀仏、四十八願をもって、衆生を摂受したまう」(聖典二・二八九/浄全二・五六上)と説かれることによる。四十八願は浄影寺慧遠においては摂法身願しょうほっしんがん、摂浄土願しょうじょうどがん、摂衆生願せつしゅじょうがんに分類されたが、善導は四十八願すべてが衆生のためにあると理解した。良忠はこれを「四十八願摂受衆生とは、彼の本願の中に仏身浄土の両願有りといえども生のためならざることなし」(浄全二・三八二上)と釈している。
【参照項目】➡四十八願
【執筆者:粂原恒久】