『山城名跡巡行志』によると現在の京都清水坂より六波羅の辺りにあった荘園を示すといわれる。法然が、遺弟に対して自らの没後の遺誡として記した『没後遺誡文』の第二条には、同所が記載されている。『没後遺誡文』によると、法然は臨終に際して入室の弟子たちに対して自ら所持した房舎などの遺物を付属する旨を記しているが、その際、信空に黒谷本坊・白川本坊とともに坂下の薗を付属すると記されている。
【資料】『山城名跡巡行志』(『増補京都叢書』一〇)、『没後遺誡文』(昭法全)
【参照項目】➡信空
【執筆者:工藤美和子】