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甘糟太郎忠綱

提供: 新纂浄土宗大辞典

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あまかすたろうただつな/甘糟太郎忠綱

—建仁三年(一二〇三)一〇月頃。法然帰依して往生をとげた御家人。武蔵国の住人で武蔵七党の猪股党に属したとされている。甘糟は現在の埼玉県児玉郡美里町の大字甘粕。猪股党の河勾野政基の弟家基が甘糟氏を称し、その子の甘糟野次広忠がこの地に館を構えたといい(『新編武蔵風土記稿』)、忠綱はその子と推察されている(『翼賛』五五)。忠綱は建久三年(一一九二)一一月一五日、比叡山堂衆を鎮圧するため、日吉八王子の社壇に向かった。その途中で法然を訪ね、鎧の下に法然からもらった袈裟をかけ、高声念仏して往生をとげたという。しかし『四十八巻伝』二六のこの記述は、建仁三年の誤記と考えられ、『明月記』や『華頂要略』によれば、この年一〇月一五日、八王子社に引き籠もる堂衆に院宣を下して追討している。白川業資の『業資王記』には「その間、きずを負うの輩、その数を知らず」とあり、忠綱もこの時没したと考えられる。なお、建久から法然が没する建暦年間(一一九〇—一二一三)までで、山門八王子社に争乱があったのは建仁三年だけである。


【資料】『四十八巻伝』二六(聖典六)、『九巻伝』五上(浄全一七)、『翼賛』二六、『明月記』、『華頂要略』一二一(仏全一二八)


【参照項目】➡甘糟太郎忠綱に示す御詞


【執筆者:小此木輝之】