教えを知的に理解して信じること。良忠は『浄土宗要集聴書』末で「浄土の円教は仰信ごうしんの一乗なり、聖道の円教は解信の一乗なり」(浄全一〇・二八〇下)と言う。聖冏は『糅鈔にゅうしょう』で解信は証悟ではなくてその初歩的な理解であるとする。また『教相十八通』上で、「我が宗の教門解義因分は全く諸宗の実義大信の果分に当る」(浄全一二・七三九上)とし、「今、解信の四句を作って以て十宗の旨趣を貫ぬ」(浄全一二・七四一上)として図のように示す(浄全一二・七四一上~下)。
【参照項目】➡仰信
【執筆者:藤本淨彦】