奈良県大和郡山市中鍛冶町。登天山。奈良教区№二六。知恩院末。寺地一帯は昔は寺町と呼ばれ、川の際にあったことから河中寺と呼ばれる寺があった。かつては宗風が定まっておらず、僧侶の出入りはあったが、居住した僧は不明である。その河中寺の地に、天正九年(一五八一)、鏡誉周頓が龍巌寺を開いた。周頓は尾張の生まれで、初め同市小泉町にある善福寺に住した後、龍巌寺に移り四〇年余りを過ごした。龍巌寺は、江戸時代に郡山城内の寺社触頭ふれがしらとなり城内寺院の取りまとめ役を担っていた。
【資料】『浄土宗寺院由緒書』上(『増上寺史料集』五)
【執筆者:三宅徹誠】