生没年不明。聖光の門弟とされることから、おそらくは一三世紀中頃の人。早くして家業についたが苦励がたえず、元久年間(一二〇四—一二〇六)に浄土の宗義を相伝されたとされる。また、元久二年(一二〇五)に聖光が法然のもとで修学して九州に戻った後、法然の門弟と称するある学人が異義を唱えた。その際、聖光は書状を法然のもとに送るために度脱房を使いとした。法然にも謁見した聖光の弟子であり貴重な存在であるが、著作等は伝わっていない。
【資料】『四十八巻伝』四六(聖典六)、『鎮流祖伝』三(浄全一七)、『総系譜』上(浄全一九)
【執筆者:郡嶋昭示】