文化六年(一八〇九)—文久二年(一八六二)八月一五日。越後の生まれ。一三歳で小石川伝通院慧戒の門下となり、一九歳のとき福田行誡とともに入洛した。南都で『俱舎論』の講義をすることもあった。のち江戸で慧澄に八年間師事し、天台三大部を修学して伝通院の学頭職となった。このころ越前で排仏事件が起きたため、請われて安政四年(一八五七)、運正寺の住職となった。世寿五四歳。
【資料】『略伝集』(浄全一八)
【執筆者:大屋正順】