大永の法難
提供: 新纂浄土宗大辞典
だいえいのほうなん/大永の法難
大永三年(一五二三)におこった知恩寺と知恩院の相論。どちらが本寺かをめぐって幕府・青蓮院門跡・朝廷をまきこんだ大規模なものとなった。知恩寺は当時幕府の庇護を受け、室町幕府近くの一等地に大きな伽藍を構えていた。一方知恩院は法然の廟所であることを足がかりに青蓮院門跡の庇護のもと、各地の寺院を末寺下に組織し始めていた。こうした中で浄土宗寺院が香衣を被着する許可を天皇に奏請する権利を巡って両者が対立。朝廷の優柔不断な態度により二転三転し、結果青蓮院門跡が吉野へ、知恩寺住持が清水寺へ出奔する騒ぎになった。最終的には幕府が肩入れする知恩寺優位の曖昧な決着となり、そのため朝廷は知恩院を盛り立てるために大永の御忌鳳詔を出した。
【参考】伊藤真昭「中世浄土宗教団の特質」(『仏教文化研究』五〇、二〇〇六)
【参照項目】➡御忌鳳詔
【執筆者:伊藤真昭】