—天明四年(一七八四)七月九日。観蓮社声誉。字あざなは直到。三河の人。日課念仏五万遍を一日も欠かすことなく修め、京都一条の浄福寺に住して念仏の弘通につとめ、多くの者から帰依を受けた。晩年草庵に移り日課一万遍を加え六万遍の念仏を修した。自分の死を七月九日と予言し、身を清め、衣を替え小鉦を鳴らしながら百万遍の念仏を修し、「願以此功徳」の偈文と十念を称えて八八歳で往生したという。
【資料】『新撰往生伝』五(浄全一七)
【執筆者:田中芳道】