文雄
提供: 新纂浄土宗大辞典
2018年3月30日 (金) 06:35時点における192.168.11.48 (トーク)による版
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もんのう/文雄
元禄一三年(一七〇〇)—宝暦一三年(一七六三)九月二二日。江戸時代の代表的学僧の一人。字は僧谿、号を無相、または尚綗堂ともいう。丹波国桑田郡濃野村、中西氏の子。幼少のとき同郡玉泉寺で剃髪し、ついで京都了蓮寺誓誉に師事し、のち江戸伝通院で修学。儒学の大家・太宰純について中国の語韻を修め、『摩光韻鏡』を著し、師を驚嘆させたという。後年、誓誉の後を受けて了蓮寺一七世となり、宝暦元年(一七五一)桂林寺に退き隠棲した。宝暦一三年五月阿波・讃岐の両国を遊歴、京都に帰り同九月二二日に入寂した。著作も多く、富永仲基『出定後語』の反駁書である『非出定後語』を著したことは有名。また『蓮門類聚経籍録』は長西に次いで宗書の目録を整理したもので、後世の学徒に益すること大である。報恩寺湛澄、法泉寺珂然、正法寺大我とともに京阪地方で一派をなしたという。
【参考】『続日本高僧伝』(仏全一〇四)、堤朝風輯/英遵補定『近代著述目録』(『日本人物情報大系六〇 学芸編二』皓星社、二〇〇〇)
【執筆者:伊藤弘道】