九条兼実が造営した山荘の名、またはその名に基づく兼実の呼称。兼実は、正治元年(一一九九)頃より、現在の東福寺の東から泉涌寺せんにゅうじにかけての山谷に、山荘を造営した。妻が没した後、この地に居住し始め、その後、兼実の呼称として用いられるようになったと考えられる。ゆかりの地を呼称として用いる例としては、兼実の父である藤原忠通が、氏寺の法性寺の名をとって、法性寺殿と呼ばれており、それを受けて兼実は後法性寺殿とも呼ばれている。
【参考】多賀宗隼『玉葉索引』(吉川弘文館、一九七四)
【参照項目】➡九条兼実、月輪二
【執筆者:東海林良昌】