凡夫の心を馬が荒れる様子と猿の落ち着きのなさにたとえて言うこと。心猿意馬ともいう。法然は『登山状』の中で、『観経』の定善義を説明するにあたり、「その定善の門にいらんとすれば、すなわち意馬荒れて六塵の境に馳す、かの散善の門に臨まんとすれば、また心猿遊んで十悪の枝に移る。かれを静めんとすれども得ず、これを止めんとすれども能わず」(聖典四・四九八/昭法全四二一)と、凡夫の心を捉えている。このたとえは、曇鸞『略論安楽浄土義』にも、「然るに凡夫の心猶なお野馬のごとし。劇して猿猴なるを識しる。六塵を馳騁じていし、暫くも停息せず」(浄全一・六七二上)とある。
【執筆者:東海林良昌】