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霊裕

提供: 新纂浄土宗大辞典

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れいゆう/霊裕

梁・天監一七年(五一八)—隋・大業元年(六〇五)。地論宗南道派の学系に属した僧。学徳の高さから裕菩薩と呼ばれる。定州鉅鹿きょろく曲陽(河北省定州府曲陽県)の人。生涯に二〇〇巻もの著述を残した。著書中に『観経』の注疏があったと伝えられるが現存しない。その名声から、北斉の文宣帝の帰依を受けて『華厳経』を講述するが、北周の武帝のときに廃仏にあう。難を逃れた後は、末法到来の危機を強く感じて、宝山寺に石窟を造営し、石面に経典の文句を刻して法滅にそなえた。また堅く戒律を持し、隋の文帝による国政参加の召請も固辞した。命終時には口に念仏を称えて最期を迎えたという。


【資料】『続高僧伝』(正蔵五〇)


【参考】牧田諦亮『中国仏教史研究』一(大東出版社、一九八一)


【執筆者:工藤量導】