「名・句・文」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
Seishimaru (トーク | 投稿記録) 細 (1版 をインポートしました) |
Seishimaru (トーク | 投稿記録) 細 (1版 をインポートしました: 20180917 リンクと画像表示修正) |
||
1行目: | 1行目: | ||
=みょう・く・もん/名・句・文= | =みょう・く・もん/名・句・文= | ||
− | 名称と文章と文字のこと。[[名・句・文]]はそれぞれ心不相応行法の一つとして数えられ、有部においては[[実有]]とされるが、[[唯識]]学派等は[[実有]]とは認めない。[[名・句・文]]は『[[俱舎論]]』においてそれぞれ「名は謂わく[[作想]]なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V29.0029a.html 正蔵二九・二九上] | + | 名称と文章と文字のこと。[[名・句・文]]はそれぞれ心不相応行法の一つとして数えられ、有部においては[[実有]]とされるが、[[唯識]]学派等は[[実有]]とは認めない。[[名・句・文]]は『[[俱舎論]]』においてそれぞれ「名は謂わく[[作想]]なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V29.0029a.html 正蔵二九・二九上])、「句は謂わく章なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V29.0029a.html 同])、「文は謂わく字なり」([http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V29.0029a.html 同])といわれる。すなわち名はⓈnāmanの訳で名称を意味し、[[作想]](Ⓢsaṃjñākaraṇa)と定義される。[[作想]]とはイメージを作るというほどの意味で、名称は我々にイメージを喚起させることから名は[[作想]]とよばれる。句(Ⓢpada)は章(Ⓢvākya)、すなわち文章と定義され、文(Ⓢvyañjana)は字(Ⓢakṣara)、すなわち文字と定義される。ここでいう文字とは「ア」や「イ」といった個々の音を意味し、書かれた文字を意味するのではない。また名称が二つ以上集まると名身とよばれる。例えば「色」はただ名であるが、「色・声」となれば名身とよぶ。同様に、二つ以上の文章・文字をそれぞれ句身・文身とよぶ。 |
---- | ---- | ||
【執筆者:石田一裕】 | 【執筆者:石田一裕】 |
2018年9月17日 (月) 10:09時点における最新版
みょう・く・もん/名・句・文
名称と文章と文字のこと。名・句・文はそれぞれ心不相応行法の一つとして数えられ、有部においては実有とされるが、唯識学派等は実有とは認めない。名・句・文は『俱舎論』においてそれぞれ「名は謂わく作想なり」(正蔵二九・二九上)、「句は謂わく章なり」(同)、「文は謂わく字なり」(同)といわれる。すなわち名はⓈnāmanの訳で名称を意味し、作想(Ⓢsaṃjñākaraṇa)と定義される。作想とはイメージを作るというほどの意味で、名称は我々にイメージを喚起させることから名は作想とよばれる。句(Ⓢpada)は章(Ⓢvākya)、すなわち文章と定義され、文(Ⓢvyañjana)は字(Ⓢakṣara)、すなわち文字と定義される。ここでいう文字とは「ア」や「イ」といった個々の音を意味し、書かれた文字を意味するのではない。また名称が二つ以上集まると名身とよばれる。例えば「色」はただ名であるが、「色・声」となれば名身とよぶ。同様に、二つ以上の文章・文字をそれぞれ句身・文身とよぶ。
【執筆者:石田一裕】