「安土問答」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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2018年3月30日 (金) 06:17時点における最新版
あづちもんどう/安土問答
一
天正七年(一五七九)五月二七日、織田信長の居城安土城下浄厳院で行われた浄土宗と日蓮宗との論争。安土宗論ともいう。事の発端は、同年五月中旬、関東より安土に来て法談を行っていた浄土宗の霊誉玉念に、日蓮宗信者の建部紹智と大脇伝助が法問を仕掛けてきたことによる。日蓮宗側は京都から妙覚寺の日諦、頂妙寺の日珖、久遠院の日雄ら、浄土宗側は霊誉玉念、安土西光寺の聖誉貞安らが対峙した。浄土宗の背後には信長がいたとされ、結局判定者である禅僧因果居士によって浄土宗の勝ちとされ、日蓮宗側は袈裟を剝ぎ取られた。浄厳院にはこのときの「かちどき念仏」が今に伝承され、敦賀西福寺・岡崎大樹寺にはこのときの袈裟の一部が残されている。宗論の結果、以後日蓮宗は法問を一切仕掛けないこと、多額の礼銭を信長に支払うことを誓約させられたが、背景には折伏という日蓮宗の布教方針や、京都や堺の町衆を有力檀徒に組織していた日蓮宗の経済力を信長が恐れていたことがあったとされる。
【資料】『信長公記』
【参考】河内将芳「安土宗論再見」(同『中世京都の都市と宗教』思文閣出版、二〇〇六)
【執筆者:伊藤真昭】
二
一巻。滋賀安土浄厳院所蔵の安土問答に関する記録。作者は安土問答にも参加した知恩院山内一心院の助念。末尾に天正九年(一五八一)一一月二日の日付と助念自身の署判がある。内容は当日のやりとりを具体的に記すとともに、答えに詰まった日蓮宗側に対し聴衆からどっと笑いが出て、浄土宗側により勝利の証として日蓮宗側の袈裟が剝ぎ取られ、退出するときに聴衆から棒で打たれたこと、負けた日蓮宗が信長に提出した起請文の写し等が収録されている。
【所収】滋賀県教育委員会『摠見寺文書目録Ⅱ浄厳院文書目録』
【参考】安土町教育委員会『浄厳院資料総合調査報告書』一(二〇〇五)
【執筆者:伊藤真昭】