「相対的二元論・絶対的一元論」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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そうたいてきにげんろん・ぜったいてきいちげんろん/相対的二元論・絶対的一元論
二つの事象が対立し互いに関連して存在することを相対といい、比較対立を超越していることを絶対というが、仏教では相待・絶待といい、大小、彼此、善悪、苦楽等対立しながら超越することをいう。智顗は『妙法蓮華経』の経題の「妙」について相待妙と絶待妙を立てる。相待妙は、『法華経』は大乗至極の経であり他の経が権実を含むのに対して直ちに実を説く経とし、他に対して勝れている妙なる経であるとする。絶待妙は他と比較しなくても妙であり、大小乗権実の区別を超えて直ちに妙なる立場を表す経であるとする。このような相対絶対の是非、善悪等の対立を超越する概念は、仏と衆生、煩悩と菩提等との関係においてもいわれ、不二而二・二而不二の関係としてとらえられる。本来は不二であるから実体としての仏も菩提もないが、現実には煩悩に迷う衆生があるので、仏と衆生、煩悩と菩提との二つに分けられる。天台思想は「相対(事)から絶対(理)へ」の論理により、不二絶対を求める特色をもつ。本来の立場では迷う煩悩も、悟らなければならない悟りもあるわけではないので、生仏不二、煩悩即菩提という絶対的一元論に立つ。天台を学んだ法然は当初、不二絶対の一元的立場を究めようとしたが、煩悩を振り払うことのできない凡夫が到達することは困難であると気づき、而二相対の二元的立場をとることになる。すなわち「救済する仏」と「救済される衆生」との二元的相対の関係である。仏と衆生とは口称念仏による、呼び、呼ばれる関係にある。それは「速やかに生死をはなれ」(聖典三・一八五/昭法全三四七)ることを実現するためには、煩悩から脱却できない衆生が仏の救いにより浄土に往生するという、相対的二元的救済にもとづく立場である。これに対して弟子の親鸞は、悪人を自覚しながらも念仏は自己のはからいによらない非行であり、自己のはからいによる善ではないので非善とし、ひいては自己のはからいによる非行非悪ということにもなり、不二絶対の一元的立場となる。これは天台の不二絶対論、本覚法門の影響によるものである。
【執筆者:福𠩤隆善】