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熏習

提供: 新纂浄土宗大辞典

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くんじゅう/熏習

行為の結果が心に影響を与えること。香りが他に移ることにたとえられる。Ⓢvāsanāの訳語。単に熏、また薫習ともいう。熏習により残された結果を習気じっけという。『成唯識論』二(正蔵三一・九下)では熏習について、熏習する側の条件(能熏の四義)と熏習される側の条件(所熏の四義)を規定する。熏習する側とは七転識、すなわち六つの識と末那識まなしきのこと。熏習される側とは阿頼耶識あらやしきのことである。これにより熏習を、七転識が阿頼耶識種子を残すことと定義する。また正しい教えを聞くことで衆生に清らかな影響が残されることをもん熏習という。『起信論』(正蔵三二・五七八上)では、汚れ無きものである真如と汚れである無明が、互いに熏習することが説かれている。これを中国華厳宗の法蔵は、その注釈である『大乗起信論義記』で「汚浄互熏」(正蔵四四・二七〇上)という。また熏習を心の状態に影響するもの(習熏)と心の活動を助長するもの(資熏)に大別する。『成唯識論』等の唯識論書では熏習有為法の間だけで起こると考えるのに対し、『起信論』等の如来蔵系論書では無為である真如にも熏習を認め、両者の見解に異なりがあることがうかがわれる。また迦才の『浄土論』上では「熏習熟利して命終の時に臨んで正念現前するなり」(浄全六・六四一上)と常に仏名を念ずる利益を挙げている。


【参照項目】➡習気種子


【執筆者:小澤憲雄】