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提供: 新纂浄土宗大辞典

しき/識

ⓈvijñānaⓅviññānaの訳語。よく認識作用と訳され、感覚知のみならず夢や想像上の心象や概念などの内的把握も含まれる。阿含より心、意と同義語とされ、げんぜつしん六識が数えられ、それぞれ対象(きょう、または所縁しょえんと称す)としてしきしょうこうそくほうをもつ。これら対象は識発生の機縁となるので所縁縁しょえんねんと呼ばれる。また感覚器官(こん)として眼・耳・鼻・舌・身・意根をよりどころとする。認識は根・境・識の三つが出会うことで成立し、この三事和合をそくという(身識の境である触とは別語)。六境と六根を合わせて十二処、これに六識を加えて十八界と呼ばれ、諸法の分科に用いられる。また識は命の存続に関わる条件として食物などとともに四食しじきに数えられる(識食)。識は対象の総態を把握することであり、対象との多様な関与は従属した別法の作用である。この識本体を心王しんのう、従属する法を心所しんじょという。有部においては心所は性質により五種(大地法・大善地法・大煩悩地法・大不善地法・小煩悩地法)に分類され、特に大地法は一切の識とともにある。すなわち受(苦・楽・不苦不楽の感受)、触(前述の三事和合)、思(思考、意業の造作)、想(差別相の取得)、欲(行為欲求)、慧(確証)、念(記憶)、作意(注意喚起)、勝解(確信)、三摩地(心の集中)の一〇種である。一つの心王に対して複数の心所は同時に活動するが、このとき同一の根、同一の境、同一の心象(行相)、同時、同じ心所が一心王に複数発生していないことの五義を満たし、その心と心所の関係を相応という。また一衆生の心王は一刹那に一つしか生起せず、認識活動の推移はその連続で説明される。前刹那の識が消滅することで次の刹那に識が生じることが可能になるが、この条件を等無間縁とうむけんねんといい、前刹那の識は次の識の所依となるので感官が存在しない意識の根であるという。五蘊の一、識蘊は六識身にこの意根を含めた七識界をいう。

法相宗においては同時に複数の識の生起が承認される。第八識として阿頼耶識あらやしき、第七識の末那識まなしきを加え、八識説を取る。心意識を別体とし狭義には六転識のみを識とする。また識には四分しぶんありとして、相分、見分、自証分、証自証分を挙げる。外界の対象を認めない唯識義において識自体が表出したものが経験されるすべてである。対象の表象を相分といい所縁に当たる。その観察者が見分であり、さらにその相見両分を観察する自証分があるという。自証分は識の自体であり、主客の形式で表象を把握し、記憶に残すことも可能となる。さらにその自証分を確認する証自証分があり認識が完成するという。十二支縁起においては第三支に識を置く。有部においては母胎に入った最初の刹那五蘊をいい、この瞬間は他の蘊に対して識が勝れているから代表するとし、特に意識であるともいわれる。また法相宗では名色支を生ずる阿頼耶識執受の種子であるとする。

菩提の障害が取り除かれるにつれ、有漏うろ識が転依を起こして四智が獲得される。これを転識得智という。智は心所の慧に対応するものであり、相応する識も共に生じる。浄土宗義では凡夫往生する極楽浄土阿弥陀仏報土である。これを現ずるのは阿弥陀仏のもつ四智の一、平等性智である。しかし法相宗からは、この土を認識できるのは地上の菩薩のみであり、凡夫がこの極楽浄土を見ることは不可能であるという批判がある。懐感はこれを踏まえ、凡夫阿弥陀仏の無漏の極楽世界をそのままに見ることは叶わないけれども、それによく似た有漏浄土を仏の願力により現ずるので仏から見れば凡夫往生といいうるという(浄全六・八下)。


【参考】金子寛哉『「釈浄土群疑論」の研究』(大正大学出版会、二〇〇六)


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【執筆者:小澤憲雄】