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提供: 新纂浄土宗大辞典

つみ/罪

一般的には、何らかの規律・規範あるいは何らかの超越的・神的存在に対する違反行為のことをいう。その違反対象により、法的な罪、道徳的な罪、宗教的な罪に分けることが可能である。すなわち、法律に違反するという社会に対する罪、良心・道徳的規範に反する罪、そして神や仏といった超越的なるものへの背反という罪である。

歴史的にみるならば、未開社会において「罪」の概念は十分に発達していなかったと考えられる。そこでは罪、すなわち悪の行為は外的な力によって誘発されるものと考えられることが多かった。しかし、社会が発達するにつれ社会的な約束事として諸規律・規範が成立し、それに違反することによる社会的罪が生じ、またそれらを媒介として道徳や倫理的観念が生まれ、それを破ることについて個人が罪の意識を感じるようになり、最終的に世界宗教が成立するとともに、初めて主体的な、人間の根本的な罪の意識が生まれていく。

その意味で、罪という概念は宗教的な罪の次元ではじめて根本的な位相を持つ。世界宗教においては、人間という存在は超越的・神的存在との関係において把握されるため、罪とはまさに人間と超越的・神的存在との関係にかかわる。つまり、宗教はその関係を根源的構造として定めるものであり、人間はそれに即して生きていかねばならないとされるのであるが、現実には人間とはそこから外れてしまうものであり、またそれを避けることができない。人間は根本的にあるべき姿から外れている、まさに罪にある状態で生まれてくる存在なのである。しかしそれはまた、だからこそ人間が自らの存在を問うことにもつながり、そして最終的には罪の状態からの救済を求めるという側面をも生む。

ユダヤ教

ユダヤ教においては、罪は個人と超越的・神的存在との関係ではなく、イスラエルという共同体とヤハウェとの関係においてとらえられる。唯一神ヤハウェの意志は律法に示されており、何よりもその律法に対する背反こそがユダヤ教における罪となる。神がイスラエルに示した律法の中でも特に有名なのが「十戒」であるが、それらを守り罪を犯さない場合に与えられるのは「救済」ではなく、「あなた方の神、主があなた方に与える地」における神の恩恵である。

キリスト教

イエスにおいて罪とは神の愛に対する背反を意味した。先にも見たように、ユダヤ教では律法を守ることこそが神への信仰を意味したが、その儀礼的違反を罪とする信仰のあり方はイエスから見れば神への背反に他ならなかった。「口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである」(マタイ一五:一八~一九)というように、罪は人間の心のあり方にあるのであり、その罪人としての自己の存在に気付くようイエスは「悔い改め」を説いたのであった。そして、悔い改められた人間には神による「救済」がもたらされるのである。

イスラム教

イスラム教には人間とは罪を犯しがちな存在であるという認識が根本にあるが、中でも最大の罪は不信仰、また、結果的にはアッラーの神の否定につながる多神崇拝である。これらの罪を犯すと「最後の審判」において救済されず火獄に永遠に落とされるのだが、アッラーへの信仰の篤さが認められればそのような事態には陥らず、「楽園」にいくことができる。そのためにもアッラーへの絶対的服従がイスラム教では求められるのである。

仏教

仏教において罪とは、戒律に違反する行為を意味する。人間は罪を犯せば必ずそれに対する何らかの報いを受けるという因果応報の理を持つ仏教では、罪は「罪業」とも呼ばれる。この「罪業」の自覚の意識が特に強く見いだされるのが浄土教であるが、またその自覚から仏教においては人間という存在についての省察が深められ、そして「救済」の教えが発展していった。


【参照項目】➡罪悪救済


【執筆者:山梨有希子】