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提供: 新纂浄土宗大辞典

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(あきうらじょうげん/秋浦定玄)
 
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弘化元年(一八四四)九月一一日—大正五年(一九一六)八月二三日。寂[[蓮社]]静誉雷阿。<ruby>字<rt>あざな</rt></ruby>は拙黙、あるいは楓水。[[金戒光明寺]]六〇世。現在の茨城県稲敷市に生まれる。俗姓は仁井田氏。嘉永五年(一八五二)、幼くして[[江戸崎]][[大念寺]]、寥誉[[定円]]を師として[[得度]]する。安政五年(一八五八)には、[[増上寺]]に<ruby>[[掛錫]]<rt>かしゃく</rt></ruby>し梁誉観定について十余年の間、[[宗学]]を修め、明治六年(一八七三)一月二七日より[[西福寺]](福井県敦賀市)の[[住職]]を二七年間務める。その間、[[教部省]]より少教正に補せられ、一宗顧問、[[布教]]会副会長、[[浄土]][[宗学本校]]校長等の要職を歴任。同三二年九月一三日に一宗公選によって、[[金戒光明寺]][[法主]]に選出されるも、その任に堪えざる身を理由に再三にわたり固辞したが、ついには一宗より勧告をうけて六〇世の[[法灯]]を受け継ぎ、ならびに[[正僧正]]に叙せられた。同三六年三月、[[浄土宗専門学院]]校長に就任。[[金戒光明寺]]在山一七年間、ほぼ毎年、全国各地を巡回し[[檀信徒]][[教化]]に努め、同四四年二月一五日には[[大僧正]]に叙せられ、四月に[[法然]]の七〇〇年[[遠忌]]を厳修し、[[三門]]をはじめ諸堂の大修繕を行った。世寿七三歳で示寂するまで、教学の興隆や子弟を養成するなど、[[宗門]]の発展に多大なる功績を残した。
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弘化元年(一八四四)九月一一日—大正五年(一九一六)八月二三日。寂[[蓮社]]静誉雷阿。<ruby>字<rt>あざな</rt></ruby>は拙黙、あるいは楓水。[[金戒光明寺]]六〇世。現在の茨城県稲敷市に生まれる。俗姓は仁井田氏。嘉永五年(一八五二)、幼くして[[江戸崎]][[大念寺]]、寥誉[[定円]]を師として[[得度]]する。安政五年(一八五八)には、[[増上寺]]に<ruby>[[掛錫]]<rt>かしゃく</rt></ruby>し梁誉観定について十余年の間、[[宗学]]を修め、明治六年(一八七三)一月二七日より[[西福寺]](福井県敦賀市)の[[住職]]を二七年間務める。その間、[[教部省]]より少教正に補せられ、一宗顧問、[[布教]]会副会長、[[浄土]][[宗学本校]]校長等の要職を歴任。同三二年九月一三日に一宗公選によって、[[金戒光明寺]][[法主]]に選出されるも、その任に堪えざる身を理由に再三にわたり固辞したが、ついには一宗より勧告をうけて六〇世の[[法灯]]を受け継ぎ、ならびに[[正僧正]]に叙せられた。同三六年三月、[[浄土宗専門学院]]校長に就任。[[金戒光明寺]]在山一七年間、ほぼ毎年、全国各地を巡回し[[檀信徒]][[教化]]に努め、同四四年二月一五日には[[大僧正]]に叙せられ、四月に[[法然]]の七〇〇年[[遠忌]]を厳修し、[[山門]]をはじめ諸堂の大修繕を行った。世寿七三歳で示寂するまで、教学の興隆や子弟を養成するなど、[[宗門]]の発展に多大なる功績を残した。
 
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【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、『浄土教報』一五四、三六六、三六九、一二三一
 
【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、『浄土教報』一五四、三六六、三六九、一二三一
 
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【執筆者:井野周隆】
 
【執筆者:井野周隆】

2022年12月9日 (金) 08:45時点における最新版

あきうらじょうげん/秋浦定玄

弘化元年(一八四四)九月一一日—大正五年(一九一六)八月二三日。寂蓮社静誉雷阿。あざなは拙黙、あるいは楓水。金戒光明寺六〇世。現在の茨城県稲敷市に生まれる。俗姓は仁井田氏。嘉永五年(一八五二)、幼くして江戸崎大念寺、寥誉定円を師として得度する。安政五年(一八五八)には、増上寺掛錫かしゃくし梁誉観定について十余年の間、宗学を修め、明治六年(一八七三)一月二七日より西福寺(福井県敦賀市)の住職を二七年間務める。その間、教部省より少教正に補せられ、一宗顧問、布教会副会長、浄土宗学本校校長等の要職を歴任。同三二年九月一三日に一宗公選によって、金戒光明寺法主に選出されるも、その任に堪えざる身を理由に再三にわたり固辞したが、ついには一宗より勧告をうけて六〇世の法灯を受け継ぎ、ならびに正僧正に叙せられた。同三六年三月、浄土宗専門学院校長に就任。金戒光明寺在山一七年間、ほぼ毎年、全国各地を巡回し檀信徒教化に努め、同四四年二月一五日には大僧正に叙せられ、四月に法然の七〇〇年遠忌を厳修し、山門をはじめ諸堂の大修繕を行った。世寿七三歳で示寂するまで、教学の興隆や子弟を養成するなど、宗門の発展に多大なる功績を残した。


【参考】『黒谷誌要』(浄全二〇)、『浄土教報』一五四、三六六、三六九、一二三一


【執筆者:井野周隆】