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「無漏浄土」の版間の差分

提供: 新纂浄土宗大辞典

 
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[[極楽浄土]]が[[煩悩]]に汚されていないことを表す言葉。[[道綽]]は、この[[穢土]]においては<ruby>相<rt>そう</rt></ruby>に<ruby>囚<rt>とら</rt></ruby>われて貪り求めたり、憂い怖れたりと煩わされるが、[[極楽]]においては「相を取るといえども、当に執縛とすべきにあらざるなり。また彼の[[浄土]]に言う所の相とは、即ちこれ無漏の相、[[実相]]の相なり」(『[[安楽集]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0703 浄全一・七〇三下]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0018c.html 正蔵四七・一八下])と、その相は無漏なので[[執着]]することはなく、むしろ[[解脱]]を得て[[智慧]]の眼が開き、朗らかになると説明する。また[[善導]]も依報[[荘厳]]は「皆これ[[弥陀]]浄国の、無漏真実の勝相なり」(『[[観経疏]]』聖典二・一六四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0002 浄全二・二下])と説き、さらに「諸の宝林樹、皆[[弥陀]]無漏心の中より流出す。[[仏心]]これ無漏なるに由るが故に、その樹もまた、これ無漏なる」(同・二五四/同・四一上)と、[[阿弥陀仏]]の無漏の心から生じているから無漏なのだと説明する。ただし[[懐感]]は、無漏心を有する[[阿弥陀仏]]においては無漏土だが、いまだ[[煩悩]]を有する[[凡夫]]が[[往生]]する場合は、自身の心から変現した[[有漏]]土となるという(『[[群疑論]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J06_0008 浄全六・八下])。
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[[極楽浄土]]が[[煩悩]]に汚されていないことを表す言葉。[[道綽]]は、この[[穢土]]においては<ruby>相<rt>そう</rt></ruby>に<ruby>囚<rt>とら</rt></ruby>われて貪り求めたり、憂い怖れたりと煩わされるが、[[極楽]]においては「相を取るといえども、当に執縛とすべきにあらざるなり。また彼の[[浄土]]に言う所の相とは、即ちこれ無漏の相、[[実相]]の相なり」(『[[安楽集]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J01_0703 浄全一・七〇三下]/[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/V47.0018c.html 正蔵四七・一八下])と、その相は無漏なので[[執着]]することはなく、むしろ[[解脱]]を得て[[智慧]]の眼が開き、朗らかになると説明する。また[[善導]]も依報[[荘厳]]は「皆これ[[弥陀]]浄国の、無漏真実の勝相なり」(『[[観経疏]]』聖典二・一六四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0002 浄全二・二下])と説き、さらに「諸の宝林樹、皆[[弥陀]]無漏心の中より流出す。[[仏心]]これ無漏なるに由るが故に、その樹もまた、これ無漏なる」(同・二五四/[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J02_0041 同・四一上])と、[[阿弥陀仏]]の無漏の心から生じているから無漏なのだと説明する。ただし[[懐感]]は、無漏心を有する[[阿弥陀仏]]においては無漏土だが、いまだ[[煩悩]]を有する[[凡夫]]が[[往生]]する場合は、自身の心から変現した[[有漏]]土となるという(『[[群疑論]]』[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch_post/search/detail.php?lineno=J06_0008 浄全六・八下])。
 
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【参照項目】➡[[有漏浄土]]、[[無漏・有漏]]
 
【参照項目】➡[[有漏浄土]]、[[無漏・有漏]]
 
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【執筆者:齋藤蒙光】
 
【執筆者:齋藤蒙光】

2018年9月17日 (月) 10:09時点における最新版

むろじょうど/無漏浄土

極楽浄土煩悩に汚されていないことを表す言葉。道綽は、この穢土においてはそうとらわれて貪り求めたり、憂い怖れたりと煩わされるが、極楽においては「相を取るといえども、当に執縛とすべきにあらざるなり。また彼の浄土に言う所の相とは、即ちこれ無漏の相、実相の相なり」(『安楽集浄全一・七〇三下正蔵四七・一八下)と、その相は無漏なので執着することはなく、むしろ解脱を得て智慧の眼が開き、朗らかになると説明する。また善導も依報荘厳は「皆これ弥陀浄国の、無漏真実の勝相なり」(『観経疏』聖典二・一六四/浄全二・二下)と説き、さらに「諸の宝林樹、皆弥陀無漏心の中より流出す。仏心これ無漏なるに由るが故に、その樹もまた、これ無漏なる」(同・二五四/同・四一上)と、阿弥陀仏の無漏の心から生じているから無漏なのだと説明する。ただし懐感は、無漏心を有する阿弥陀仏においては無漏土だが、いまだ煩悩を有する凡夫往生する場合は、自身の心から変現した有漏土となるという(『群疑論浄全六・八下)。


【参照項目】➡有漏浄土無漏・有漏


【執筆者:齋藤蒙光】