「大村桂巖」の版間の差分
提供: 新纂浄土宗大辞典
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おおむらけいがん/大村桂巖
明治一三年(一八八〇)—昭和二九年(一九五四)一〇月二日。進蓮社精誉真阿。字は亀城。滋賀県愛知郡葉枝見村三ツ谷(現・彦根市南三ツ谷町)常光寺に大村哲誉の長男として生まれる。明治三五年(一九〇二)に浄土宗学本校高等正科を卒業、後に東京帝国大学哲学科に入学し教育学を専攻。同四三年に卒業すると、同四四年より第六第七教区連合教校の教頭に就任したのを皮切りに、尼衆学校校長、東山中学校校長、淑徳高等女学校教頭、陸軍教授、宗教大学教授、大正大学教授、芝中学校校長などを歴任。その後、昭和二一年(一九四六)に大正大学浄土宗学監、同二二年に同学長を務めた。その間、大正五年(一九一六)に下谷入谷町(東京都台東区)東運寺の住職となった(同一一年に豊多摩郡和田堀〔東京都杉並区〕の釜寺に移転合併)。宗教教育研究に生涯をかたむけ、外遊して各国の宗教事情、教育事情を視察した。昭和四年(一九二九)に雑誌『教育と宗教』(教育と宗教社)を発刊し、通宗教、宗派的な宗教教育の研究をおこなった。他にも、『教育学汎論』(教育研究会、一九二二)、『国民教育の根本義』(教育研究会、一九二七)、『宗教教育の種々相』(大東出版社、一九二八)、『宗教教育概論』(北文館、一九三〇)など多数の著書がある。
【参考】『東運爾語』(大村先生記念文叢刊行会、一九五五)、大橋俊雄『浄土宗人名事典』(斎々坊、二〇〇一)
【執筆者:齋藤知明】