漆間時国
提供: 新纂浄土宗大辞典
うるまのときくに/漆間時国
法然の父。諸伝には、その姓を漆、売間とも。系図には皇統の傍系を標榜するものもあるが、定かではない。美作国久米南条稲岡庄に押領使を勤めていたが、対立関係にあった明石源内定明の夜討ちにより命を落とした。法然との関係で注目されるのは、時国の死についての二説である。その年代を『私日記』以降、主要な伝記では法然九歳の時とし、時国は臨終の床で、「汝更に会稽の恥を思い、敵人を恨むることなかれ。これ、ひとえに先世の宿業なり。もし、遺恨を結ばば、その仇世々に尽き難かるべし。しかじ、早く俗を逃れ、家を出て我が菩提を弔い、自らが解脱を求めんには」(『四十八巻伝』聖典六・一一)と遺言し、それが法然出家のきっかけとなったとする。それに対し、『醍醐本』別伝記では、時国が「我に敵あり、登山の後に敵に打たれたと聞かば、後世を訪うべし」(法伝全七八七)と、比叡山に登る以前に敵の存在を明かし、一五歳で比叡山に登った後、「慈父敵に打たれ畢んぬ」(同)ことを聞き、師である叡空に暇を乞い遁世の希望を述べたという。いずれにせよ、時国の死と言葉が法然の人生に与えた影響は大きい。
【資料】聖典六、法伝全
【参考】三田全信『成立史的法然上人諸伝の研究』(平楽寺書店、一九七六)
【参照項目】➡押領使
【執筆者:東海林良昌】